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名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



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2013-10-28

河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第3回)

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id:may_ca:20131020#p1 のつづきです。


前回は「臺に乗る」という小説を紹介しましたが、同じ時期に読んだ「蟻たかる」も同じくらい面白かったのです。こちらはちょうど一年前に、同じく『文学界』に発表されたとのことです。


こちらも、テーマは「臺に乗る」に似ていて、主人公・法律事務所に勤める史子の生理が一週間遅れている、というところから物語は始まります。史子は、六年前に結婚した、ひとつ歳下の夫・松田と暮らしています。史子と松田は、「臺に乗る」の丈子と戸川同様、子供を避けてきた夫婦、しかし単に生理周期に従ってしか子供を避けてこなかった夫婦です。

史子と松田は、サド=マゾヒスティックな性愛を好みます。史子は松田に、道具を用いて責めてもらうことを好み、そうした苦痛を与えることを省略されたときは、不満を感じます。ちなみにこうしたマゾヒストの女主人公(しかも、単に受動性としてのマゾヒズムでなく、能動マゾヒズムとでもいうのか、性愛においてのみ積極的に苦痛を望む女性)は、デビュー作以来河野の作品に頻出する、おなじみのキャラです。


さて、生理が遅れている史子は、先日の、まさに「苦痛の快楽を省略した性愛」で受胎の怖れにつきまとわれてしまったことを、不快に感じます。松田に、「受胎したような気がするわ」と告げるのですが、このとき、「言ってやった」という表現が使われているのが可笑しい。松田は、「だけど夫婦の間で、ごめんよ、というのもおかしいね」と応えます。

史子たちは、先に留学の予定があり、このタイミングでの妊娠は困る、というかそもそも、史子は子供がほしいと思ったことはないのです。


ここで面白いと思ったのは、妊娠をめぐる微妙なずれです。

生殖がもはやわれわれにとって自然なことではない、というのは自明であると思われます。たとえば、妊娠なんて自然現象のはずなのに、同じ妊娠でも、未婚の状態で起これば眉を顰められ揶揄され、既婚の状態で起こるならばおおっぴらにめでたいものとされますよね。肉体的に、妊娠可能であるか否かということ/社会的に、妊娠が良しとされる状態かどうかということ(年齢や経済状態の如何、結婚しているかどうかなど) の間にはずれがあり、現代においてはそれはもう最初から、大きくずれているわけです(多くの人は10代前半のうちから妊娠可能ではあるが社会的にその年齢での妊娠は可能ではないとされている)。

で、更に、史子たちの場合は、社会的には妊娠しても何ら問題のない婚姻状態にあるわけですが、さらにここで、個人の心理として、妊娠可能であるか否か、という問題があるわけであり、そのずれがあるわけです。心理的な可能不可能と社会的な可能不可能とは、なんとなくすんなり一致するものであり一致していることがあらまほしきことと考えられていることが多いと思われますが、実はそうではないわけで、先の史子と松田のやりとり、とりわけ「夫婦の間で、ごめんよ、というのもおかしいね」という松田の台詞には、このずれが控えめな形であらわれており、面白く思います。

史子が、苦痛の快楽を伴わなかった性愛によって妊娠したことを不快に思っている、という点も面白い。要は、つまらんセックスで要らん心配を抱え込んでしもうてええこと何ひとつあらへんやんか、ということなのですが(べつに関西弁にする必要はないのだが)、世で言われる「母性愛」はここに一ミリもないで!


が、この後、史子に、世で言われる「母性愛」のようなものの片鱗が育ってゆくような描写がなされるのです。



当初、史子は、次のような心境でいます。

子供を産み、育てることなど、思っただけでも厭であった。今度、生理が遅れてからも、怖れ、松田を恨み、処置を思うことに屈託するばかりで、希望的な想像はまるで湧かない。そんな彼女にとって、松田の言葉はひどくこたえた。あれほど誓い合っておきながら、松田がこっそり子供を想うようになり、自分には兆しそうもない親としての感情を早くも味わっているらしいのを見ると、彼女は裏切られたような、妬ましいような気持に陥った。(全集2 p.41)

「松田の言葉」とは、「(子供が)ひとりくらい、いたっていいんじゃないの」という言葉です。二人は子供をもたないことを「誓い合って」いたにもかかわらず、夫は今や気楽にそれを裏切るような言葉を言い、一方で実際に子を宿すほうの史子には、いっこう母性らしきものが芽生える気配はありません。

「臺に乗る」においても、丈子が夫に望むこととして、

子供は絶対に欲しくないと、戸川にはっきり答えてもらいたかった。

子供なんて要るものか。ふたりで楽しく暮らそうよ」という言葉を聞きたい。

という望みが描かれていたことが思い出されます。


さて、そんな史子でありますが、松田と子供の話をするたび、次第に気持が変わってゆくのです。トイレに行き、生理がまだ来ないことを報告する言葉は、「まだ、大丈夫よ」「嬉しい?」という言葉に変化していきます(「大丈夫よ」=「妊娠している可能性は継続しているわよ」)。ついに史子は松田に、「産んであげるわ」と言うのですが、このくだりの描写も絶妙です。史子の変化は、一見、妊娠したことで自然に起こる心境の変化、自然な母性愛の発露に見えるのですが、依然史子は「生理を願う気持ちが退かない」し、「子供が欲しいと感じられない」のです。しかし、松田の子供の話を聞くのは嫌ではなく、「松田の父親ぶりを見たいという気持ちは激しくこみあげる」。つまり、史子の子供を望む気持ちは、自然に子供を望む本能的な気持ちのようなものがあるとしてそうしたものとは乖離しているのです。


しかしそんな変化の中、生理が訪れます。


(つづく)

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