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名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



もともとは「京都アカデメイア」スタッフのグループブログの一つということで始めたブログですが、現在は個人的な雑記として用いています。心にうつりゆくよしなしごと等を記録することとします。

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京都ぬるぬるブログ
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(パイロン、貼り紙、絵馬、動物、犬など)

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書評『バンギャル ア ゴーゴー』
書評『摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学』
書評『勝手にふるえてろ』



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2011-06-22

森茉莉の文体の自由さに驚嘆せよ

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私はまだ、インスタント・ラアメンというものをたべたことがない。何うやって造えたものだか判らないし、又判ろうとも思わないが、あの透徹った袋の中に、生湿りの針金状になってとぐろを巻いている支那ソバの化けもの、

――私は支那中華民国とは絶対言わないし(尊敬からである)、従って支那ソバを中華ソバとは言わないのである。私を何者だろうという顔で視ることによって恨み骨髄に達している、カアチャン、ネエチャン族が、(何者だろう? と思って視られることを嘆くのを止めよう。わが崇敬する役者のピイタア・オトゥールを見るがいい。王様の洋服を着ようが、ナポレオン時代の軍服を着けようが、彼はなんとなく変であって、むろん欧羅巴映画監督はえらいから、彼にはなんとなく変な王様や軍人をさせるのではあるが、ちゃんとした王様や軍人をやらせたって、彼はなんとなく変にみえるだろう。彼がちゃんとした人物に見えたとすれば、それは彼の天才的な演技力のためである。ピイタア・オトゥールがなんとなく顔も胴も長い格好で、だらしのない感じにスウェタアを着、だらりと飛行機の段々を下りてくるところのスナップを見ると、超特級の「へんな外人」である。ロレンスや、ヘンリ二世等々によって世界中の人が顔を知っているからいいようなものの、あの格好でフラフラ、日本人スパイ問題があったために私がその存在を知ったなんとか事務局の辺りでもうろつこうものなら、忽ち疑惑の眼に捕えられるだろう。ピイタア・オトゥールなら発狂したギ・ドゥ・モオパッサンに扮して、ベッドの傍において寝た苺と、洋杯(コップ)の水とを、今に人類に替って世界を制覇することになっている生物が[モオパッサンはその生物を、《オルラ》と呼んで恐れている]半分たべたり、飲んだりしてしまった、と思いこんで恐怖し「オルラだ!!! オルラだ!!!」と唇をわななかせて、観る人を脳性梅毒の男を見る恐怖の中に包みこむことも、お茶のこだろう。その、名優であって、又同時にソドミアンであり、世界中のどんな女よりも無心の魅力を持ち、仔豹のように甘える、わがモイラのモデルであるところのピイタアに、微かにでも似ているからこそ、へんなやつだと、見られるのだ、と無理にも信じこむことにしよう)ソバ屋へ入ってくるや、「中華っ」と呼ばわるのをきくのが、私の最もきらいな、嘔吐を催すべき瞬間である。その「中華っ」と呼ばわる口は、私の貴むべき部屋の外で「雨だよっ」と叫び、四月になれば「もうおはながさくわねえ」と言い、くたばりやがれと思っている迷い猫に「可哀そうだねえ」とか言うのと同じ口である――

を見ると私は、(ああ、この薄黄色は卵黄の黄色ではない。梔かなんかの花から精製した、きみしぐれの黄色でもない。これは正しくオーラミンである)と思うのだ。


森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫)より

インスタントラーメンはイヤだ」と書くのに文庫本30行消費!!





ルネ会議

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きのうはルネで京アカ会議でした。新しい人が来てくれてうれしい。人がたくさんいると、単純に、たのしいですね。

就職でそれっきりになるのは淋しいので、やっぱりゆるゆると皆が関わりつづけていけるようななにかがあるといいんやがな、とおもった。





母というものについて

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先日斎藤環の『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス)をよんだ。タイトルからして、もっと心理トンデモ本みたいのかとおもってたけど、思ったよりいい本だった。少なくともわたしには共感できるとこが多かった。やっぱ精神分析の扱いって難しいよね、ともおもったけど。あと、著者近影がいつもより優しげでいい感じだった。

で、これを読んだからというわけでもないのだが、母というものについて最近考えたことをメモ。



1. 楳図かずおはすごいとおもったこと


楳図かずおの『洗礼』は母と娘をテーマとした名作なのだが、この作品のなかでわたしがもっとも、「ウメズ!!すごい!」とおもった場面は最初の、さくらちゃんがお母さんに抱きつくところである。

もうちょっと詳しく説明する。

『洗礼』、どういうストーリーかというと、往年の大女優が老いて美しさを失い始める。彼女はひどくショックを受け、ある決心をする。「女の子を産んで、美しい娘に育ったら、その娘の体に自分の脳を移植して、自分が娘として生きる、そして今度は幸せな女の人生を送る」というトンデモ決心だ。そして実際彼女は娘を産む。娘・さくらは目論み通り美少女に育ち、ついに彼女は脳移植を決行しようとする。だが、その秘密の計画を不意にさくらが知ってしまうのである。で、医者に脳移植を依頼する母親の声を聞いてしまったさくらの様子、その描写が秀逸なのである。

彼女は、母の姿を見て恐怖に固まるが、その一瞬後、すぐに「お母さん!」と抱きつこうと母に駆け寄っていく。そのコマをみたとき、「なんでこんなリアルな描写ができるんだ!」と驚いたのだった。

子供の頃、うちの母親はやたら子供を怖がらせるのが好きな人で、いろいろと必殺技をもっていた。その技のひとつに「ずばずばまん」という技があった。「ずばずばずばずば!」と叫びながらチョキの形にした二本の指を交互に動かしてこちらに向かってくる、というだけの今思えば意味不明な技なのだが(おかんアホや)、当時はちょーこわかった。

しかし、ちょーこわいのに、わたしは「ずばずばまん」が始まると同時に、泣きわめきながら母のもとに駆け寄り抱きついたものであった。そうすると、距離が詰まって余計にずばずばされさらに泣き喚くことになるというのに、自分でも「なんでー?」と思いながら。そのときのことを思い出したのだった。メラニー・クライン的な、悪い母親(二本の指先)と良い母親(本体?)の分裂。あるいは、お母さんはずばずばなのにわたしにはこのお母さんしかいない!という絶望……。

「子供の心を失わない」なんて形容は安っぽいけれど、楳図かずおは、ほんとうの意味で子供の心を失わないほんとうに稀有な人だと思う。



しかし、『洗礼』の「母と娘」というテーマは、わたしは実はあんまりぴんと来ない。ぴんと来るとしたら、自分が母になって娘を産んだときではないかのうとおもう。



2. 「母の言葉」


上記たまっきー本に「母の言葉」という概念が出てきた。母に言われた忘れられない一言、意識的意識的に影響を与えられた一言、みたいなものを指すようだ。

わたしはわりと母と仲がよいほうなのだが、それだけにやはり、母の影響というのはでかく、わたしにも「母の言葉」はある。

わたしの「母の言葉」は、「色気づきおって」であろう。

思春期前後、ちょっと身なりを気にしたときなどに、この言葉はしばしば発された。たとえば覚えてるのは、脚の毛を抜いてたときや。わたしは当初、なんとなくこっそりと脚の産毛を抜いてたのだが、あるとき母に、つるんつるんした脚を発見されたのだった。そのとき母が、「あんた毛抜いてんの? 色気づきおってー!」とからかったのやった。

そう、これは単なるからかいの言葉だったのだが、わたしにはそれが非常な非難にきこえ、非常に恥じ、罪悪感を感じたのだった。


そもそもわたしは、なんでかしらんけど、着るものや自分の容姿にこだわるのは道徳的にあかんこと、みたいなアレが子供の頃からあった。べつに明確にそういう教育を受けたわけではないのだが、『赤いくつ』という童話を読まされたのを覚えている(赤い靴を気に入った女の子がかわいそうなことになる話)。

妹(下)は幼少期からこんな服が着たいとかあんな服を買ってほしいとかいろいろこだわっていたのだが、わたしは「タンスの一番上に入ってる服を着る」と言い張っていて、母に「あんたはほんまに色気がないなあ」と笑われていた。ほんまはわたしも、こんな服がほしいとか無いでは無かったが、そういうことを言うたらあかんキャラなのやった。


そしてそう、母というものは、「色気づきおって」とからかう一方で、「色気がない」と非難してくるんである。

由々しきダブルバインドだが、しかしこれはあまり気にしなくていいダブルバインドだったのだ! ということがかなり後になって分かった。妹(下)もわたしと同じく「色気づきおって」を言われていたが、彼女はそういわれてもいっこうに気にせずに、流行の服を着、お化粧をし、眉毛を抜いたりなんやかんやしていた。そして今は、(少なくとも姉よりは)まっとうな女性に育った。

そうか!あの「色気づきおって」は気にしなくてよいものだったのだ、親のそういう言葉は、みんな言われる儀礼のようなものなのでスルーすればよいものだったのか! とわたしが妹を見て気づいたのは、はたちも過ぎた頃やった。


ところでしかし。わたしはずっと、じぶんが着るものや容姿における色気づき欲というかカワイイ欲、女性性欲みたいなんを抑制してきたのは、母の教育方針であるとおもっていたのだが、それはどうも違うらしいということが、その後母が、「ほんとは私は子供にカワイイ格好させるんが好きなんやけど、(父方の者たちが)いろいろ言うから好きなようにできんかった。妹は最後の子やからもう好きなようにした」というようなことを述懐したことにより、明らかになった。そーいえば『赤いくつ』の絵本も、べつに母から与えられたものではない。「母の言葉」の母は、単なる母だけの母ではなかったよーである。





ミチロウ

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ust? っていまいち使い方がよくわからないのだが、こないだほぼ初めて観た。

遠藤ミチロウのライブが中継されている!と友人がついーとしたのでちらっと覗くつもりで観ただけだったのだが。

もう、最後の曲とアンコールしか聴けなかったのだが、それでも、すごいライブを見てしまったと思った。




アンコールは「カノン」という、パッヘルベルカノンをカヴァー(?)した曲で、狭い瓶の中でおよぐ金魚が詞のモチーフとなっている。「泳ぐことは頭をぶつけることだ/見ているあなたに痛さはわからないだろう」。詞自体は20年ほども前に書かれたものだとおもう。それを、当年還暦の遠藤ミチロウが歌いながら、泣いていた。

ミチロウさんは福島の出身で、そのライブは、フクシマ――わたしはいま知らず知らずそれを片仮名で表記して漢字表記に直そうとしてやはりまた片仮名表記に戻した―― からの中継なのであった。「一日に数センチの...透き通った水を汚し汚し...」。 わたし京都にいた。


柔いふくらんだ 腹の中には

黒づんだ 緑のフンが所狭しとつめられて

一日に数センチの悲しさ しぼり出し

この透き通った水を汚し汚し泳ぐのです


フラリ フラリ フラリ フラリ


あーもう嫌だと思うことだけが

まだこうしていれる力なのです

だからボクを愛してると言うのなら

このビンを手に取って

あの硬いコンクリートの壁にたたきつけて下さい

ゲスト



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