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名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



もともとは「京都アカデメイア」スタッフのグループブログの一つということで始めたブログですが、現在は個人的な雑記として用いています。心にうつりゆくよしなしごと等を記録することとします。

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京都ぬるぬるブログ
http://yaplog.jp/maternise/

(パイロン、貼り紙、絵馬、動物、犬など)

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書評『摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学』
書評『勝手にふるえてろ』



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2011-10-25

乳関係二件

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先だってはひさびさにけんきうかい的なものに出た。

乳房文化研究会の定例研究会「Message from 3.11 母乳でつなぐ命」。

http://www.wacoal.jp/c/nyubou-bunka/upcoming/message-from-311.html

アンケートの用紙の性別欄が、選択式でなく記入式で「おっ」とおもったんだけど、なんか考えがあってのことなのかな? あの、「男・女」にマルを付ける選択式、毎回なんかせちがらーい気分になるので嫌い。でもまあどうせ記入式でも「女」と書くので同じことなんだけど。


研究会は、震災被災地の支援がテーマだった。

講演者は三人ともお医者さんで、一人は福島のお医者さん、あとの二人は関西から被災地に行ったお医者さん。

母乳でつなぐ命」というお題だったが話の内容は(母乳話に限らず)広くて、まず、現場の具体的な話を聞けたことがよかった。やはりずっと関西におると、まだ被災地被災地なのであるということを忘れてしまいそうになるから。具体的な話とは、パンティーライナーの話や、人工肛門の話など。「男の人は想像つかんやろけど、女性の被災者はきっとナプキンとかパンティーライナーとかがなくて困ってる!」というのんはわたしもいつもおもうけど、「避難所人工肛門の人が肩身の狭い思いをしている」とかいうことには、言われんとなかなか想像が及ばない。


意外だったのは、「母乳」というテーマで当然話されるだろうと予想していた放射能の話にはあんまり触れられなかったこと。産科婦人科学会などによる「母乳育児には問題なし」という見解が示されて(「放射能よりも母乳育児できないリスクのほうが高い」みたいなこともいわれてた気がするが記憶があいまいなのでちょっと自信なし)、「被災地のお母さんたちよかったですねー」みたいに流されただけであった。実際どうなんだろう?

最後のディスカッションのシメは、「震災下で母子を守るには」について一言ずつ、であったのだが、そこでも、「お母さんというものは、放射能の心配をしていても子供の前では平気な顔をしてなくちゃならない、不安な顔を見せないことで子供は安心する、それが女の強さ、女の特権」みたいな精神論?で全員一致して終わってしまい、うーん、と思うた。

(でもこれは、それぞれ「こんなことしか言えませんが」と前置きしておられたとおり、さしあたっての実感、といった感じであった。)


あと、震災の話とは直接関係ないのだが、カルチャーショックだったのは「母乳育児>>>>>粉ミルク育児」というのが、もう前提として共有されているようであったことです。母乳育児がよしとされるのには、栄養や免疫上の理由もあるようだけど、それらの理由と同列に、当然のように「母乳育児で母子間の愛情が深まる」というのが並んでおり、たとえばわたしが比較的なじみのある社会学ぎょーかいとかなら、そうした言説を疑うという姿勢が前提的に共有されているようであるけど、医学ぎょーかいでは、むしろそれを疑わないことが前提であるらしかった(この会場を見る限りなので、医学ぎょーかい全体としてどうなのかは分かりませんが)。印象的だったのは、フロアから質問に立った産科のお医者さんが、「不幸にして粉ミルクの人」という表現をなすったこと。「ええっ」とぎょっとして聞き間違いかと思ったら、二回同じ表現を。その後、「さきほど『不幸にして』と言ったのを『都合により』に訂正します」と訂正しておられた。このとき笑いが起きてたんですが、うちはちょっと笑えずでした。



乳といえば、さいきんこれを読んだ。


映像や美術などさまざまな分野において「乳房」の表象を論じた論文集。中には、「これ乳中心にまとめるんちょっときついよね」という論文もあったけど(笑)。しめしあわせたわけでないだろうに、どの論文も、良い乳房/悪い乳房 という乳の分断を指摘しているのが興味深い。

中でわたしがもっともおもしろく読んだのは、ピンクリボンキャンペーンにおける乳房表象を論じた第二章「美の威嚇装置」。ピンクリボンキャンペーンについては、以前から、その主旨については文句ないけどと思いつつもなんかもやもやとしており、そのもやもやを見事に研究&言語化してくださったなあ!と思い、あらまほしき研究とはもやもやの言語化だった!ということも思い出した。乳よ!

じつはわたしも昔、このキャンペーンのコピーに応募したことがあって、たしか「あなたのおっぱいはあなたのもの」みたいなフレーズを考えたんだけど、通らんかったのです。まあ何のひねりのないフレーズですからな。でもそのとき、たぶん、このキャンペーンにおいて、女性の乳が子供のもの・男のもの・日本のもの・だから乳がんから乳を守れ! みたいな雰囲気で語られていることをなんとなく察知してもやもやしてたのやとおもう。





※ちなみにわたしが描いた乳がん検診ポスタです ↓

http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=10719815

※でもわたしは検診行ったことない。乳おしつぶし機がこわい。




※201702追記 この研究会のレポートを研究会のサイトに書かせていただいたもの:http://www.wacoal.jp/c/nyubou-bunka/lecture/post-4.html

2011-09-17

卒業式まで死にません

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卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)


書籍化された南条あやの日記を、今更読みました。

文章ほんまに上手いなあ! そして、同世代だー! とおもた。

私より一学年下なのかな?

テレホーダイ、MD、Coccoのセカンドアルバム、殺人鬼役の小泉今日子PHSエンコー(流行語としての)、女子高生ブーム、インターネット初期、90年代の終わりからゼロ年代の足音。

自営業の娘というところも一緒で、ああ、わかるわかる!と思った。家で親が始終お金のことでいらいらしてたり暗い顔で愚痴ってたり、それも私を養うためなんだ!って思うのってほんま精神衛生上悪いよね(まあべつに自営業には限らないことだが、常にその事実を眼前に見ていなければならないし、また自分も半分従業員=親の部下 みたいな感覚がある)。そんなにぐちぐち言うならあたしに援助交際でもさせればいいだろ! みたいなことをあやちゃんも書いてたけど、わたしもよくそー思った。(当時ミヤダイ先生は援助交際超OK!というてたけど、だがそのように「エンコー」について考えるときの自分のむしゃくしゃした気持ちはけして健全ではなかったな、そこんとこどうよ、と今になっておもう。まあこれは余談。)



また、彼女の、高校生(女子高生――当時は「JK」などという言い方はまだなかった)でなくなってしまうときの不安というか、拠り所のない気持ち、その記述を読んで、自分が高校生でなくなるときの気持ちをおもいだした。

私など、「女子高生」という肩書によって何か実質的に得をした記憶もない醜い日陰の女子高生だったが、それでも、「女子高生」でなくなることで自分の付加価値がひとつなくなるような心もとない気持ちがしたもんだ。わたしの場合、(あやちゃんと同様、)卒業後の進路が決まっていなかったから余計、ということもあった。(ちなみに現在久方ぶりの「卒業」を前にしているわけですがやはり同様の状況。)

彼女の自傷や死の原因をあれこれ推測することはできない。が、皆が皆同じ年齢で同じこと(就職とか進学とか)をしないといけないというこのシステム、そこからちょこっと外れたり乗り遅れたりするとひどく道を外したかのように感じ(させ)られてしまう、というこのいきぐるしさがなかったらどーだっただろうか? とか思うんである。


とはいえ、彼女をダシにして社会のシステムについてあれこれ言う、ということがなんとなく憚られるのはなんでだろう。

といえば、彼女の日記が、まったく隙のないくらい、読み手を娯しませるエンターテイメントとして書かれているからであると思う。

もちろんどんな書き物でも、読み手に向けて書かれているからにはエンターテイメントという側面があるのだが、彼女のエンターテイナーぶりは徹底している。その文体は、読み手に語りかけていながらも読み手に救けを求めたり同情を欲したり馴れ合ったりする風がなく、書き手/読み手 ががっちり固定されている感じがする。ショーなんである。リスカODの嵐の中でしかし、「こういうことを期待してるんでしょ? こういう物語が読みたいんでしょ?」と、ショーをプロデュースする彼女の筆致は非常に冷静。


まあ先生(注:医者)はこのような状態の方が診察楽でお金が取れていいんでしょうけど、読者の皆様はもっと荒廃した私の精神状態を期待なさってる方もいらっしゃるんじゃないかと思います。やーん、また静脈切断ぶっしゅー、とかエヘヘ、援助交際初めて理想の父親像を探しに来ます、とか (249頁)



一介の読み手である者がこのショーの外側に出て(出たつもりで)、「この人は自分では気づいてなかったかもしれないがこういうことに苦しんでいたのだ」とかなんやかんや分析するんは、なんかどうも滑稽になってしまうんである。(香山リカさんの解説も、なんだかすごく書きにくそうだ。)




あと、書籍の形で今読めるものには、おそらく何重にも編集の手が加えられているゆえ、彼女の書いたこと/書かなかったことの全貌が正確には分からない、ってこともある。

当初彼女の日記はあるライターのサイトの一コーナーとしてそのライターによってupされていたし(この過程で削除や編集もあったようだが真偽のほどは不明・ライターの女性はウェブ上では行方不明らしい ――現在、彼女のサイトの残骸の周辺を徘徊してみると、なんかえらいことになっていて、ネットとは!ゼロ年代とは!ってなった)、さらに書籍化される過程で、お父上および編集者によって大幅に編集されているようだ。

(これから文学部とかでも、書籍として出版された文学作品でなくてネット上に発表された作品で卒論やら書く子が増えていくんとちゃうかな、と思うのだが、異本がたくさんあって作者が一人とは限らなくて、っていう、近代文学よりむしろ古典文学の研究方法に近づくんでないかな、大変そう、とかふとおもう。)



ところで、南条あや文体って、誰かの文体に似てると思ったら菜摘ひかるだ。似てませんか? 写真で見る限り、お顔も少し似てるように思う。が、何より似てるのは、ウェブ上の日記でありながら、徹底した読み手へのサーヴィス精神、エンターテイメントとして立つ姿勢。

菜摘ひかる、20代半ばくらいの頃に死ぬほど読んだが、最近読んでいない。彼女の文章を読むと、彼女の文章を読んでいたころにくらべて、世界への怒りみたいなもんが減退してしまったことを感じ、生き延びてしまった自分、を思う。世界への怒りというか、当時のわたしの「世界への怒り」の半分は「男の性欲への怒り」でできていたのだが、なんかそんなんがなくなってしまったいいか悪いかはまた別の話だし脱線したので終わる。




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気になる本がいろいろ出ている。読みたい本メモ。






『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか

『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか


南沙織がいたころ (朝日新書)

南沙織がいたころ (朝日新書)


情報時代のオウム真理教

情報時代のオウム真理教


アンアンのセックスできれいになれた?

アンアンのセックスできれいになれた?


オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

2011-06-28

本日のたつぞう(たつぞうと女性論と語り手)

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以前に石川達三『結婚の生態』の感想を書いたですけれども(id:may_ca:20110520#p1)、その後、たつぞうが気になってしまいたつぞうをいろいろ読んでいるです。


『結婚の生態』で気になってしもたんはなんといっても、

「この主人公の男って現代のわたしの目で読めばまるで "フェミニズム的にNGとされる男の戯画" のようやけどたつぞうは本気で書いてたんか?それとも一種パロディとして書いたんか?」

というところのわからなさをめぐるもや~もや~のせいでしたのでありまして、その後、代表作『蒼氓』を読んでこれは非常に面白かったのだが上記もや~についてはスッキリせず、さらに『薔薇と荊の細道』と『泥にまみれて』という、まさに「結婚」「女性」をテーマにした二作を読みまして、「うむ、本気やったんか」と分かった次第。

というか『結婚の生態』において、わたしが戯画的であると感じたところの結婚観・女性観こそが彼の思想の核であったようだ。


いずれも現代の若い読者にはあまり読まれていない作品であろうから、ここで紹介しておこう。

まず、『薔薇と荊の細道』は1952年の作品。

ストーリーは、ものすごく俗っぽくまとめると(ネタバレ含)、処女であった会社員・伸子がいろいろな意地から好きでもない同僚の男と寝てしまい気付いたら妊娠していてさあどうする、という話。

これは、主人公の男性一人称で語られた『結婚の生態』と違って、三人称小説なのだが、この語り手のあり方が面白い。

非人称のこの語り手には明らかに人格があるようで、主人公たちの言動を「これはこういうことなのだ」といちいち説明しに現れる。いわゆる「神の視点」語り手である。たとえば、冒頭で主人公と女友達が会話を交わす場面では、


技巧に満ちた言葉、何かから常に身を躱しているような会話である。それが知性だと思っているのだ。知性とは何のことか、正直なところよく解ってはいない。友達の名前は仇名で呼び、敬語を使うべきところに乱暴な無頼漢の言葉をつかい、隠語をあやつる。そんな子供だましの技巧を、彼女の仲間たちは知性だと信じている。そして知性という言葉に最も高貴な人格を想像しているのだった。一時代まえの女たちは美貌をきそい衣裳の美しさを競うたものであるが、近代的に洗練された彼女たちは、外見の美よりも人間内容の美を、すなわち知性の分量を競うている。それが流行だった。(18頁)


伸子が手紙を書けば、

手紙のなかでふざけた言葉を弄ぶことは、彼女等の年代の一種の流行ではなかったろうか。それはもしかしたら大人の真似であったかも知れない。真面目であるべきときにふざけて見せ、諧謔を弄し、茶化して見せる、それは当面の事件から超然としている大人の心境を模倣していたのだ。或いはそうすることによって自分を偉大に見せようとしていたのだ。(p.199-200)



とこんな具合に語り手は解説してみせる。愚かだが愛しい人間どもを見下ろす神の視点、あるいは、可愛いバカ娘を見つめる父親の視点、未熟な学生を眺める教師の視点、って感じ。人格があるといったけど、ひらたくいうと、おっさん臭い語り手である。




ところで冒頭の主人公たちの会話が、「個性」というものをめぐってのものであることは象徴的である。彼女らは、それぞれの異性関係のあり方を論議しては「そんなの個性がないわ」などと言い合うのであるが、この作品で終始テーマとなっているのは、個性や人格といったものと「女」であることの対立なのである。

個性・人格と「女」であることは対立関係にあるのである(そして主人公はそれに気付いていない愚かだが愛すべき娘である)。

女が女であるかぎり、女を女から区別する方法は見つからない。ついに男の言葉をつかい、男身ぶりを模倣し、ズボンを穿いてみたり、髪を男の形に刈ってみたりしたが、それでも駄目だった。女は、自分に絶望している。絶望の原因は、自分ひとりの個性を持たないということではなかったろうか。(略)だから大部分の女は、(来世)は男に生れて、多勢の美しい女に恋されることを、理想と考える。そうでもしなければ、女が女から本質的に優越する方法は見つからないのだった。(41-2頁)



ではなぜ、個性・人格/女 は対立関係にあるのか? といえば、女は結婚を求めるもの、男に寄生せねば生きていけないものであるからだ。

彼女たちはそのようにして激しい競りあいをしながら、結婚の良い機会を待っているのだ。彼女たちばかりではない、その母の時代にも祖母の時代にも、何百年まえの時代から、みんなそうだった。それが女たちの一番自然な、純真な姿だった。神様がそのように造って下さったのだ。そして、その中にこそ、女性のあらゆる美しさも、あらゆる悲しみも、幸福も、みんな含められているのだった。(31頁)


自分だけでは生きて行かれない。寄生木(やどりぎ)であるところの女性の本質的な貧しさ、薄弱さ、孤独。……それに気がついたときに彼女ははじめて、女の感情を知る。男を慕い、男を恋い求め、素直になり、優しくなり、愛されようと願い、奉仕することの喜びを思う、あの、見栄も誇りも捨てた女の感情が、どんなに大事なものであるかがわかって来る。つまり(女になる)のだ。(92頁)


OH!『結婚の生態』(この作品から10年ほども前に書かれた)と同じ発想である。

以前にも書いたとおり、『結婚の生態』で印象的だったのは、女というものが結婚すると夫に頼りきってしまうことをして主人公が「女すげー!結婚がそんな大事やなんてー!神秘ー!」みたいにいちいち感嘆しよることじゃった。なんでこの男には、「経済的に女は結婚しないと生きていかれんような時代・社会やからやん」という発想がないのか? そしてその発想がないのは、この男なのかそれとも作者なのか? というのがわたしの疑問だったのだが、本作においては、そうした女の性質が社会的・時代的なものでなくて、それは女性の「本質的な貧しさ、薄弱さ」なのであるということがよりはっきり示される。

そして、なぜそれが「本質的」で自然なのかといえば、その理由は彼女らの身体的条件、つまり、妊娠・出産という条件に求められる。

牝は、自分がみごもり、仔を産み、育てているあいだじゅう、彼女と関係のあった牡の保護を必要とする。だから、性関係を起点として、その後の数ヶ月を誠実な保護者として身辺に居てくれる牡を求めているのだ。(p.120)

男には、自分が原始につながり自然につながる一個の生物にすぎないことを、腹の底まで理解させられるような機会がない。したがって男の夢は生涯つづき、いつまでも観念的な理想を追うて行くこともできる。女はSEXの地獄におち、自然の生理に支配せられ、母となってはじめて、現実の人間社会というものを腹の底から理解する。(p.212)


このように、彼女らが身体的条件に左右され、結婚や男に頼らざるをえない生き物であることは、動物の雌とのアナロジーで語られるのだけれども、このアナロジーにこだわるあまり、うっかり変なことを口走っているのは面白い。それが次の箇所。

一度に五匹の子を産む牝は、牡によって養われ保護されなければ生きて行くことはできない。そして牡を牝の身辺から離さないようにして置き、常に牝の身のまわりに在って労働と防禦との仕事を負担させるためには、牝は常に牡を魅惑し、牡の興味を自分につなぎとめて置かなくてはならない。したがって、あらゆる牝は娼婦の性格と技術とを、創造の神によって賦与されているのだ。(p.113)

人間は滅多に五匹の子を産むことなどないのに、五匹の子を産む事例を以って人間の女の性質を説明すんのはちょっとアナロジーの破綻とちゃうか。と、この神語り手に対し思うのである。なんで「五匹」なんて書いてしまったんだろう…。

(注:あ、でもこの時代なら5人くらい産むのは別に珍しくないし普通でしたね。今なら少し驚かれるけれど。)



また、性体験や妊娠に伴う主人公の心境の変化を、この神語り手は徹底して女の身体性から解説する。

それは彼女の個性でもなく、教養や思想でもなく、人類の女性が持っている運命的な性格であった。本質であった。女の不幸も女の幸福も、一切がその中にある、逃れ得ざる道筋であった。彼女の感情は彼女の頭脳の支配を受けようとはしないで、皮膚や内臓の支配を受けていた。むしろ、彼女の頭脳そのものが、皮膚や分泌腺やの支配を受けているのだった。男の肌に触れた皮膚はもはや昨日の皮膚ではなかった。男の体液にひたされた内臓は、昨日とは違った活動をしはじめていた。(93頁)

彼女の気持が和かになったのは、あるいは拘留された事件のためばかりではなかったかも知れない。(略)妊娠した母体から自然にうまれてくる一種の生理的な法悦感は、彼女の神経のとげとげしさをやわらげていたに違いない。処女であったころのいら立たしさがその肉体に原因するものであったと同様に、今のささやかな幸福感もまた、父や母との間が和解に達したということ以上に、その母体の生理から来たものであったかも知れないのだ。多くの血液は子宮に流れてゆき、彼女の頭脳や神経のはたらきは緩慢になっている。むしろ極端な表現をするならば、いま、彼女の肉体にとって頭脳は必要ではない。女体は全機能をあげて種族保存のために活動しているのであって、それ以外の人間的機能はすべて衰弱していたに違いない。(pp.190-1)

「皮膚」や「内臓」や「分泌線」や「子宮」といった語が、「頭脳」や「個性」と対立するものとして、意識的に使われている。

男かって内臓やら皮膚やらの影響受けへんのん? と問うてみたいところだが、妊娠・出産という究極の生物的体験をする女ほどではない、ということなのであろう。

次の、男根中心主義ならぬ子宮中心主義っぷりはすごい。

彼女自身の意志や個性は、ほとんど何の力をも持ってはいなかった。意志も、個性も、完全に肉体の支配の下にあった。そして彼女の肉体を支配しているものは、彼女の子宮であった。子宮に個性は無い。しかし一つの意志があった。何千年何万年にわたって続いて来た人間の生命の流れをここに受けて、それを後代に伝える、種族保存の意志、(人類)の意志であった。(略)種族保存の意志は絶対であって、個人の意志を超越する。(略) したがって、子宮を持っているすべての女性は、本質的な意味において、自由を持たない、自分の意志を持たない、個性を持たない。個性の代りに、厳粛な、人類の意志を持っている。塩田伸子は、個人であるよりも、一般的な(牝)であったのだ。(pp.152-3)


子宮ってそんな恐るべきものであったっけ!?

しかし、子宮に個性は無い!というフレーズはぐっとくるものがあつた。

というのは、余談になりますが、わたしも中学生くらいのときそんなことを考えたからです。中学生くらいのとき「ずっと処女でいたいな~」と思うたことがあった。なぜかというと、自分には個性がある、自分は自分であるという自我がある・しかし、女性性器というものは、どの女の人ももっている・だから、性器を使ってしまうと、自分が自分でなくて一般的なのっぺらぼうの「女」のひとつになってしまうような気がする、という論理であった。分かっていただけましょうか。

今になってみれば、そんなんいうたら胃も腸も目玉もみんなもってるやん、なんで生殖器だけ特別視なん、とか、ほな男性性器に個性はあるのか、とかいろいろつっこみどころはあるのであるが、そのときはけっこう切実な気持ちであった。


女子中学生の感傷と、おっさんぽい語り手の思想とがはからずも同一とはおもろい。そういえば、ラストもちょっと少女マンガ的である。(ここで指す「少女マンガ」とは、「冴えない幼馴染につんつんしていた女の子がなんかのきっかけで『○○…いつの間にそんなに男らしくなったの』『私……○○が好き!』というやつを指す。)



とまれ、以上のように、本作においては「女」が個性や人格と対立するものであるということの根拠も、女主人公のたどる運命の根拠も、明確に彼女らの身体的条件=妊娠・出産という条件におかれているのであるが(妊娠小説・オブ・妊娠小説!)、なんというてもつっこみたいのは、「なんでこの世界には避妊がないんだ!」ということ。

語り手はじめ、登場人物の誰ひとりとして避妊という発想がない。

作中で、唯一、女の運命を受け容れて生きている真に賢い女性として、「みさを」という女性が登場するのだが、彼女は男と付き合うたびに妊娠し、捨てられては堕胎する。

何人かの男に接し、そのたびにみごもり、堕胎して、少しも不幸な顔を見せたことがなかった。(略)牧野みさをは自分が女性であることに満足し、安心し、女性であることを楽しみながら、自然に生きていた。女性の自由だの解放だのという流行の言葉には眼もくれずに、周囲とはなれて一人きりで生きていた。女というものをよく知り尽くして、一匹の牝である自己に徹していたのかも知れない。(p.146)

べつにいいんだけど、幾度にもわたるこの堕胎費用はどこから出ていたのであろうか。

相手の男か、彼女本人が捻出していたのか。

しょうもないことだがこれはけっこう気になる。この物語は、主人公の、女としての成長物語である。主人公は、当初個性が云々、未婚の母になる云々、といっていたのが、ひとりでは子供を育てられないという問題に直面し(語り手によると女性の「自然」による問題)、結婚し「生活」を得る、というところで、女としての成長が完成したのだった。つまり、主人公の、女としての成長には、妊娠出産およびそれに伴う経済的脆弱性という条件が必要だったのだけれど、いっぽうで最初から女であることを受容しているとされる「みさを」が、妊娠はするが出産はできておらず、その際の費用をどう捻出しているのか分からない、というのはどういうことだ。



と、いろいろつっこみたくなる箇所はあるのだが、わたしにこの小説に関しては、現代のフェミニズム観点から批判すべき!みたいな意図はなく、というのは、たしかにこの作品には諸々いらっとするところ、いわゆる「女性蔑視的」なところも多々あるけれど(ていうか作品自体女性蔑視的といえば蔑視的だが)、それを批判するならばこういう分かりやすい「女性蔑視」でなくてもっと巧妙に差別意識を隠した、批判すべき作品が他にあるであろうとおもうので。

むしろ、語り手が主人公を微笑ましく見ていたように、わたしも語り手を微笑ましく見つつ読んだ。いやらしい読み方ではあるが。わたしにとっては「昔の小説」であるから、ということもあろう。

しかし、この後に読んだ『泥にまみれて』(1949年)はダメだった!



3頁くらいでウアアアアッとなり読むのをやめたくなった!

いいとか悪いとかでなく、とにかくウアアアアッとイヤーな気分に襲われたのである。


女というのはそういうものなのです。頼りないもの。何一つ自分のものとては無い。自分の心さえも、自分のものではなくて良人のものなのです。自分の心が自分のものだと考えていると、どこかで間違いが出来てくる。女の「人格」って、一体どこにあるのかしら。人格なんか有りはしない。女の人格は良人の心のなかで、良人の愛情に支えられて僅にそれらしい姿を保っているだけではないかしら。(pp.39-40)



自由だの平等だの権利だのと、世間の女たちはなぜそんなに低俗なごみごみした所で生きているのでしょう。それは愛情の美しさ、愛情の本当の尊さ、愛情の本当の味わいを知らないからです。私の眼からはそういう(新しき女性)たちが、何だかお気の毒に見えます。(p.151)


と語られるとおり、『泥にまみれて』も『薔薇と荊の細道』と同じく、結婚生活の中での個性/女性性の対立ということをテーマにしており、テーマはほぼ同一であるといえる。

それだのに、なんでこっちはダメだったのか?


といえばそれは、こちらは、女性一人称小説であるということのせいではないか。この作品は、娘への、母による書簡という形式をとっている。結婚したものの相手が浮気をしたことに憤慨し離婚するという娘。実家に戻ってきた娘を両親は叱り飛ばして婚家に帰らせ、その後、母は娘に手紙を書く。

そして、その手紙の中で、結婚生活とは、女の幸せとは、ということを、自分の半生(プロレタリア活動家である夫との結婚、その夫の相次ぐ女性関係、浮気した夫に性病移され自殺未遂、などなど)を語りつつ娘に説くのであるが、もうその手紙の最初の方の文、

もしも私が簡単に離婚してしまっていたら、今日のこういう喜びは決して味わうことが出来なかったでしょう。そしてこの喜びは、お前たちがいま考えている(幸福)などというものが足元にも寄れないようなもの、深い深い人生の喜びです。一人の女が、妻となって味わい得る最も深いよろこびです。むかしの武家の娘たちが、一旦嫁入ったならば、二度と実家へは帰されなかったという、その厳しさが、本当は、女性の為に最も大きな仕合せを与えるための厳しさでもあったのではないかと、私は今になって思うのです。(9頁)

この部分だけでその手紙(ないけど)を引き裂きたいほどイヤだ! これは批判というよりわたしの個人的なイヤさなのだが、とにかくイヤである。「なんでイヤか」の説明は省略する。(注:単に人の苦労話が嫌いだということもある・単に愚痴ならいいが、また苦労に関する怒りや悲しみならマジメに拝聴するが、苦労したことを自慢げに語る奴が嫌いなのである)



ただ、「男女平等や女性解放を唱えて亭主の浮気を責める女たち」への非難の部分に対してだけは、昔の作品といえどしっかり怒っておかねばならないとおもった。「女性解放」をそんなふうに矮小化したならば、亭主に女を作れといいながらあんなにのた打ち回っていた『くれなゐ』(佐多稲子、1938)の苦悩はどうなるんだ。





泥にまみれて (1954年) (新潮文庫)

泥にまみれて (1954年) (新潮文庫)

2011-06-22

森茉莉の文体の自由さに驚嘆せよ

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私はまだ、インスタント・ラアメンというものをたべたことがない。何うやって造えたものだか判らないし、又判ろうとも思わないが、あの透徹った袋の中に、生湿りの針金状になってとぐろを巻いている支那ソバの化けもの、

――私は支那中華民国とは絶対言わないし(尊敬からである)、従って支那ソバを中華ソバとは言わないのである。私を何者だろうという顔で視ることによって恨み骨髄に達している、カアチャン、ネエチャン族が、(何者だろう? と思って視られることを嘆くのを止めよう。わが崇敬する役者のピイタア・オトゥールを見るがいい。王様の洋服を着ようが、ナポレオン時代の軍服を着けようが、彼はなんとなく変であって、むろん欧羅巴映画監督はえらいから、彼にはなんとなく変な王様や軍人をさせるのではあるが、ちゃんとした王様や軍人をやらせたって、彼はなんとなく変にみえるだろう。彼がちゃんとした人物に見えたとすれば、それは彼の天才的な演技力のためである。ピイタア・オトゥールがなんとなく顔も胴も長い格好で、だらしのない感じにスウェタアを着、だらりと飛行機の段々を下りてくるところのスナップを見ると、超特級の「へんな外人」である。ロレンスや、ヘンリ二世等々によって世界中の人が顔を知っているからいいようなものの、あの格好でフラフラ、日本人スパイ問題があったために私がその存在を知ったなんとか事務局の辺りでもうろつこうものなら、忽ち疑惑の眼に捕えられるだろう。ピイタア・オトゥールなら発狂したギ・ドゥ・モオパッサンに扮して、ベッドの傍において寝た苺と、洋杯(コップ)の水とを、今に人類に替って世界を制覇することになっている生物が[モオパッサンはその生物を、《オルラ》と呼んで恐れている]半分たべたり、飲んだりしてしまった、と思いこんで恐怖し「オルラだ!!! オルラだ!!!」と唇をわななかせて、観る人を脳性梅毒の男を見る恐怖の中に包みこむことも、お茶のこだろう。その、名優であって、又同時にソドミアンであり、世界中のどんな女よりも無心の魅力を持ち、仔豹のように甘える、わがモイラのモデルであるところのピイタアに、微かにでも似ているからこそ、へんなやつだと、見られるのだ、と無理にも信じこむことにしよう)ソバ屋へ入ってくるや、「中華っ」と呼ばわるのをきくのが、私の最もきらいな、嘔吐を催すべき瞬間である。その「中華っ」と呼ばわる口は、私の貴むべき部屋の外で「雨だよっ」と叫び、四月になれば「もうおはながさくわねえ」と言い、くたばりやがれと思っている迷い猫に「可哀そうだねえ」とか言うのと同じ口である――

を見ると私は、(ああ、この薄黄色は卵黄の黄色ではない。梔かなんかの花から精製した、きみしぐれの黄色でもない。これは正しくオーラミンである)と思うのだ。


森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫)より

インスタントラーメンはイヤだ」と書くのに文庫本30行消費!!

2011-05-30

たつぞうといねこ(2)

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こないだ石川達三の『結婚の生態』について書いたけど(id:may_ca:20110520:p1)、同時期に、佐多稲子の『くれなゐ』を読んだので、そちらについても記。



べつに両作品はなんも関係ないのだが、だいたい同年齢の作家の、同時代に書かれた、どちらも結婚生活に関する話ということで、へー とおもった。

(達三は1905生れで『結婚の生態』は1938年、稲子は1904年生れで『くれなゐ』は1938年。今気づいたが、どちらもわたしくらいの年齢の頃に書かれてるのか! うわー)

なのだが、とても同時代の夫婦の話とは思えない。

正確にいうと、『結婚の生態』に登場する妻と、『くれなゐ』に登場する妻が、同時代の女とは思えない。もちろん、前者は夫である男性の一人称で書かれており、後者は三人称で妻の心理が描写されているという違いはあるけれども。



『くれなゐ』は、明子と広介という、やはり作者自身がモデルらしき夫婦が物語の中心。

『結婚の生態』のカップルは文筆家と主婦だったが、こちらは夫婦二人ともがプロレタリア文学者である。で、そのことが、二人の結婚生活にはネックになっている。明子は、「夫婦ともに作家である」ことの困難を女友達に語るのやが、それはこんな具合。


「些細な例でおかしいけど、広介が誰かと討論している時には、私は黙ってお茶を汲んでいるわね。黙ってお茶を汲まざるを得ないのよ。何んだか亭主と一緒になって言うようでおかしいのよ。一緒の時にはどうしても、外から見れば女房は女だと言う気があるでしょうからね」(16頁)

「自分の成長が、女房的なものにどうしても掣肘されそうなの。これはきっと、広介がこの頃のように家で仕事を始めたからだと思うの。以前はつまり、文筆の仕事をするのは、私が主だったでしょう。」(17頁)

家の中の重心が広介にすっかり移っている感じなのであった。それには作家としての明子の生活の根本が侵蝕されてゆくような不安が伴なっているのであった。広介の意志に関わりなく男と女の一軒の家の中で要求されているものの力でもあった。いつまで、女、女、ということにかかずらわねばならないのだろう。(41頁)


「自分の成長が女房的なものに掣肘される」!

ウーマンリブよりずっと以前にこんな言葉が女性作家によって書かれてたなんて! とおどろいた。今でも充分共感を呼ぶ言葉でなかろーか。

明子は、文筆家である自分と、妻として夫の補助的役割に留まる自分との間に、葛藤を感じている。妻役割は自分の仕事の邪魔であり、自分の仕事は妻役割の邪魔である。

その葛藤の記述におどろいたのはやはり、同時代の『結婚の生態』を先に読んでいたからということもあって、そこでは、妻は、夫の対等な(←一万年前のセンスの言葉なので使いたくないが)ライバルなどではありえず、夫に教育される存在であり、夫の補助的役割を果たすために存在していることは大前提であったし、そのこと自体に妻が意義を唱える場面もなかった。夫を邪魔する妻の自我が顔を出したとて、それは新しい着物を買えとかレインコートを買えとかいうわがままの形で現れるに過ぎんかった。「自分の成長」と「女房であること」が矛盾をきたすことはなく、彼女の成長とはすなわち良き女房となることであった(但し、主人公である夫にとって、である。彼女本人の内面においてどうであったかは語られない)。

だが『くれなゐ』では、明子の友人である画家の女性も、同業者の夫の仕事をライバル視し、「私を常に苛立たせ、いつも敗北的な感情を強く感じさせる一つのものは彼です」(55頁)と語るし、明子は、夫が拘留されていた二年間を(注:明子夫婦はプロレタリア文学者であるゆえに二人とも拘留歴を持つ)、こう振り返るのである。


二年間の留守中に、私はほんとうに、ひとりで暮らす自由さを味わった。

それは何という悲しいことだったろう。夫を愛していながら、独り暮しの自由さを希ませる矛盾は、女の生活の何処にひそんでいるのであろう。見開いている目に涙が一杯あふれて来た。(28-9頁)




そんな夫婦に、あるとき転機が訪れる。広介がある日突然明子に告げる。


「広介には女が出来たんだよ」言い終わると同時に、明子の顔を両手で押えて彼女の返事を唇で蔽うてしまった。(72頁)


なんで自分のこと三人称でいうねん、とかいろいろ衝撃の場面である。広介は明子と別居し、その女と新しい生活を始めるつもりだと告げ、明子もそれを承諾する。


「もうもう、私のように、折角仕事を計画しているのに水をぶっかけたり、意地悪く突っついたりする女房ではなくて、広介の世話ばかりしている細君が傍にいるのね。いゝなあ」

「そんな風に言うのはおよしよ。何だか辛くなってくるから。俺だけが好い気になっているようで。(略)明子にもいゝ助手になってくれる人があるといゝねえ」

「とても! 女にそんな助手だけしてくれる人なんて出来る筈はないわ」

(75頁)


ここもすごい。別居するのは互いの仕事のためだといいながら、しかしそこには男女の非対称性が横たわっている。男の仕事を支えてくれる細君はありえても、女の仕事を支えてくれる細君はありえない。明子はそれに気づいている。

他にもこんな場面がある。見知らぬ未亡人の自殺のニュースを聞いた明子が感極まって泣く場面(それにしてもこの明子、作中で一体何回泣くのや)。


男の寡り暮しよりも、働いて養わねばならぬ寡婦の方にこの弱点が考えられるのは、女の力の弱さや、女に辛い社会制度の欠陥なのであろう。明子は階下に新聞記者の待っていることが気になりながらも、おいおい声を挙げて泣いた。(92頁)


『結婚の生態』の主人公が、「そりゃその時代の社会制度のせいやろが」と思うようなこと(女が結婚後すっかり家庭に頼りきってしまうことなど)に対していちいち、「女って神秘!女とは!」と無邪気に感動していたのと同時代に書かれた言葉とは、やはり思えない。なんでこの男は社会や時代という背景に思い至らないのか? とむずむずしながら読んだものだが、『くれなゐ』には、ここではっきりと「女に辛い社会制度」という言葉が登場する。

ちなみにこの非対称性には広介も気づいていないではないけれど、彼の言葉はどこか他人事のよう。広介は、別居に至る事情を友人にこう話す。

「僕に女が出来たんだ」「僕は今、その女と新しく家を持とうとしている。このことは僕にとってはもう絶対なのだ。だからつまり今度の契機は僕にあるんだ。然し、その根源はね、二人の生活にずっと根差しているんだ。子供も老人もいる狭い家の中で、二人が、一緒にどちらも原稿を書くというような仕事を、しかも相当どちらも激しい量の仕事をやってゆくということは到底出来得ないことなのだ。明子の方が女なので困難の度合いが大きく、この頃ではずっと明子が別居を考えていた位なのだ。」(85頁)


「明子の方が女なので困難の度合いが大きい」と彼は言う。分かってんならおまえどーにかしたれや、とつっこみたくなるのだが、それが別居以外にどうにもならないことは彼の中では自明らしい。彼がその困難を、男女の自然な差に基づくものだと考えているのか、社会構造のせいだと考えているのか、二人の関係のせいだと考えているのか、そこんとこはよく分からない。




さらに、しかし、だ。

こうした非対称性があるとはいえ、明子と広介はどこか共犯的。明子は、広介の共犯であることで、自分の男性性を担保しようとしているというか、自分を男性の側に置こうとしているふしがあるように見える。たとえば、別居の話は、そもそも以前から二人の間で出ていたものであったのだが、そのとき二人はこんなやりとりをしていた。

「明子も早く次の大きな仕事にかゝらなくちゃしようがないねえ。上半期あまり書かなかったろう」

「引っぱられたりしたしねえ」

「それもある。然しやっぱり女の人はどこか男ほどのねばりが無いからね」

「生活が損だからねえ」

「勿論そりゃそうだが。然し……」

広介は軽くおどすように、

「俺がどんどん仕事をやりだすようになったら困るよ明子は。いつのまにか俺の仕事に巻きこまれてしまう。がん張らなきゃ」

「だから困っているのよ。あなたにも精いっぱい仕事をさせたいし」

(略)

「実際、ものを書く人間が狭い家に二人居るなんて辛い話だからね。どっちからか遠慮してるからね。運動の盛んな時分には俺が終始外に出ていたからやってゆけたんだなあ」

「どうすればいゝと思う?」

「まあ、別居するより他に方法は無いね」

(略)

「この頃少し俺が明子の生活を邪魔しているように思ったからさ。俺は俺でたくさん仕事をしようとしてるしねえ」

「ほんとうにそうね。別居しか方法はないと私も思っている」

「然しね。他人じゃあ心から世話をしてくれないんでねえ。別居しても明子に余計世話をかけるようじゃ何にもならんし」

「私もいゝ細君でいればよかったなア。あなたの助手になってねえ。きっと模範的な奥さんになっていてよ」

そう言ってしまってから明子は、そゝるような強い視線で広介を捕えるようにして、いいわ、奥さんをお持ちなさい、と囁いた。(pp.64-5)


広介よなんであんたは女に世話してもらうこと前提なんだ、と現代の読者としては思ってしまうが、それは明子も同様である。「(世話してもらうための)奥さんをお持ちなさい」と囁く明子は、広介に互して成さねばならぬ仕事をもつ自分とは違う、夫の世話をするためだけの「奥さん」の存在に疑問をもたない。広介の新しい女の存在が告げられたときも、明子は、自分が仕事をもつゆえに広介の良き助手に留まることができなかったことに葛藤するが、この新しい女が葛藤なく広介のよき助手となるであろうことには、疑いをもたない。



『結婚の生態』と『くれなゐ』を比較して、『結婚の生態』では妻の内面が男側からしか書かれないが『くれなゐ』では妻の内面が豊かに描かれていると言った。これは最初に述べたとおり、物語の構造上の理由も大きいだろう。『くれなゐ』では明子の視点と地の文がほぼ重なるのに対し、『結婚の生態』は主人公の一人称小説であり妻は彼に対していわゆる「他者」や。中に何が入ってるのか分からん、ブラックボックスのようなたしゃ。とすれば、『くれなゐ』でそうしたたしゃに当たるのは、まだ見ぬ「奥さん」であろう。葛藤や苦悩のない、内面や人格をもたない、つるりとした、<良い細君>の切り絵のような奥さん。(で、明子は、広介に、その女と暮らしながら籍は自分と夫婦のままであることを提案したりする。)

明子と『結婚の生態』の妻が同時代の女性とは思えないというたけれども、それもまあそんなもんであって、現代でも「女っていってもいろいろいるよね」というだけの話かもしれん、が、ただ、『結婚の生態』の妻の側から妻版『結婚の生態』がもし書かれればどんなもんだろう、と想像はする。同じように、『くれなゐ』で、広介の新しい女の側から物語が書かれたら、どんなもんだろう。


……

と考えるのだが、しかし! 実はこの女に関しては、「女は存在しない」並みのオチが!

オチは書かないでおく。



____



それにしても、『くれなゐ』は、明子の葛藤がまったくリアルでイヤになる。仕事を持つ私はいい妻にはなれない!という引け目と、開き直りと、でもそんな私がこんなに気を遣ってるのに!というどっか恩着せがましくなるまいと思いつつ恩着せがましくなってしもうて要らんことねちねちと言うてしまう感じとか。さらにそんな妻に対する夫の苛立ちとか。


明子は堪えていたが、とうとうぽろぽろっと涙をこぼしていた。話してゆくうちに、十年の自分の一生懸命な姿が、今は我が身ひとつなので、よけにいとしく思い出された、広介との生活を、いつでも真っ先に立てていた。偶然のように自分が広介より先に作家になってしまっていたが、そのことは却って明子の妻としての心づかいを大きくさせるばかりであった。いつでも家庭的な些事から広介を守ろうとし、彼の俗世間には当てはまらぬような性質も、彼の詩なのだとおもい、純粋に保とうとして努力した。今になって見れば、彼は明子のこの心づかいにさえ反抗しているようなものだ。(87頁)

「なんだって、小説なんか書いたんだろう、とおもうわ。仕事を持っていた女房だからこそ、余計に、気をつかって、旦那様にもしていたとおもうんだ。なんて馬鹿々々しい。そんな微妙なことは誰も知りゃしない。あなただって知りゃしない。そうおもうと、私は自分が可哀想になるんですよ」

「よさないか。黙っていればいゝ気になって。自分だけが悲劇の主人公だと思っている。いつでもそうなんだ。俺はいつも御前に迷惑だけかけて、ノホホンとして来たということになるんだ」「なんだと、よくも言ったな。小説なんか書かせて悪かったね。やめろ、やめろ。傲慢な。よくもそんなこと俺にむかって言えたよ。そんな傲慢は、ちゃんと自分の本も持っている人間が自信をもっている上で初めて言えるんだ」

(134頁)


うわー、今でもこんな夫婦、まわりの研究者夫婦とかでいそうやなー とおもう。ていうか、おれけっこんしたらこんなふーになりそう。「もっと素直な女のほうがいいんでしょ!」とか卑屈なこといいそう。卑屈なこといいながら「もっと素直な女を好むおまえ」を暗に責めそう。ていうかそれよくするきがする。いやぢゃいやぢゃ。それはいやぢゃ。




結婚の生態 (新潮文庫 い 2-1)

結婚の生態 (新潮文庫 い 2-1)


くれない (新潮文庫 さ 4-1)

くれない (新潮文庫 さ 4-1)




追記)その後、石川達三の代表作『蒼氓』も読んだ。よかった。『結婚の生態』の文体はやはり意図的に滑稽味を出してあるんやなーとはわかった。


蒼氓 (新潮文庫)

蒼氓 (新潮文庫)

2011-05-20

たつぞうといねこ(1)

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石川達三の『結婚の生態』を読んだ。母の本棚にあったのでなんとなく。

『結婚の生態』は、1938年の作品とのこと(文庫化されたのは戦後)なのだが、これは面白い! 或る意味で。非常に奇妙な読後感を得た。


amazonを見ると、レビューが一件だけあって、星ひとつ。

全く面白くない小説, 2005/1/23


私はこの人の傑作とされている『蒼茫』(←『ぼう』の字が無い)を読んでいないので、その作品の評価はしかねるが、この小説はただののろけ話というか、女への強制というかそんな男のご都合主義な面が見え隠れして、面白くない。ただ、発売当時、ものすごく売れていたというから不思議だ。現代ならこんな小説になぞ誰も見向きもしないであろう。


と惨憺たる評価。

わたしも石川達三についてはほぼ何も知らないのだが(確か第一回芥川賞受賞者だったはず、あと、「生きてゐる兵隊」が発禁になったという話からなんとなく反戦作家みたいな人をイメージしてた)、以下、わたしの奇妙などくごかんを記録しておく。


◇◇◇


この小説は、タイトル通り、主人公(中年期にさしかかった男)の結婚生活を書いたもの。当初結婚を否定していた男であるが、妻を迎え、理想的な家庭を作ることをめざす。

主人公は作家で、作品が新聞紙条例で発禁にされる、などという場面もあり、ほぼ私小説なのであろうと思われる。

話はこの男の一人称で進む。


のであるが、この男の語り・言動が、もう「パロディ」にしか見えないんである!

なんのパロディかというと、現代における「フェミ的にNGな男」のパロディである。

たとえば、彼は妻を「教育」するのだが、そのたびに並べるごたくが、いちいち、もう、おもろい。


いや、彼は粗暴な家父長ではない。むしろ進歩的な男である。彼の理想は、大正~昭和初期のデモクラシーリベラリズムの思想・風潮に則ったものだろう。何でも話し合える夫婦を理想とし、で、進歩的な自分の妻にふさわしいようにいちいち妻を教育する。妻を、夫と家庭のことだけを考えるのではない「賢明な女に育て」「理性の力をもたせる」ために、女子教育において軽視されている数学を勉強させたりする。そして彼は言う。


良き理智を習練するのに好都合なものはないか。私は数学を選んだ。数学のなかでも代数のような抽象的なものは女の頭には興味が少ないだろう。(知識をとりいれようとするならばそれをうまがって食わなければ駄目だ) 数学のなかで一番女の頭で興味をもてるのは具体的なもの、結局私が考えついたものは初等幾何学であった。(pp.141-2)


うっわー! 現代においてみてみれば、典型的な「進歩的を自認しながら偏見まみれの古臭い男」である。しかも理屈っぽくひとりよがり

あまぞんの書評の人の苛立ちも尤もであるのがお分かりいただけよう。


そして彼は、そうして理想の賢明な妻を育てるべく教育しながらも、それは相手にとって負担にすぎず自分の理想はひとりよがりなのでないかと時折淋しさに襲われる。また、妻が勉強することを勧めておきながら、彼女が外へ出て個人教授を受けようとすることは許さない。「嫉妬」と「子供をかかえて留守番をする私の姿はなにかしら自尊心を傷つける」ためである(p.143)。その矛盾は本人にも薄々気づかれている。

考えてみれば、私の教育方針は結局は彼女を女でないものにしてしまおうとするものであったかもしれない。客観的な思考方法、冷静な反省力、虚栄心の抹殺、絶えざる進歩性、透徹した理解力、それらはみな男性の属性であって女性には欠乏したまたは僅少な能力しか与えられていないものである、しかもなお私は妻にむかって女性的であることを要求していた。山羊から角と蹄をとって犬にしてしまいながら、なおも山羊であれと望むことの矛盾を犯していた。(p.149)






彼は、結婚生活の中で、何度も苦悩する。苦悩しては考え、己の気持ちを分析し、苦悩の理由を発見し、それを理屈っぽく述べてみせる。



妻を殴ったとき。

私は「女は擲らなくては駄目だ」と歎いた友達の言葉を思いだし、その意味がよくわかる気がした。自分の不正を正常化するための横暴から出たものでさえなければ、多少の手荒な行為も一概に否定されるべきものではなかったようだ。しかし度々くり返すとそれが悪い習慣になってしまう。擲ることの意味を常に新鮮に保たなければならない。(pp.77-78)

「擲ることの意味を常に新鮮に」!



妻を外に出したくない。

やはり私は其志子を束縛しすぎていたようだ。彼女をひとりで外へ出すことに道徳的な危険があるとは思わないが、どこか頼りなげにみえる彼女を交通機関の危険や他人の迫害から護ろうとする気持は勢いひとりの外出をよろこばないことになるのであった。家庭の仕事の都合やその他の口実を設けて私はなるべくひとりで遠くへは出さないようにしていた。その中には妻を公衆の眼に晒したくない嫉妬心や一種のエゴイズムも加わっていたであろう。彼女の乱暴なふざけた言葉は私にすくなからず恥かしい思いをさせた。(p.104)



女中が気に入らない。

とうとう私は実に不思議な自分の感情を発見した。あのふてぶてしい女が家庭のなかでのさばることを不快に思う心は、妻の厳然たる主権をまもり彼女の位置を侵させまいとする感情であったのだ。このひよわな年若い遠慮がちな妻が、あの女中にかかってはひとたまりもなく気押されそうに思われ、其志子が女中のために追いつめられていきそうな気がしてならない、そのための不快であり待遇を悪くしてはっきりと区別をつけようとする気持であった。(p.133)




結婚を嘆く。

家族制度がなぜ美風であるかといえば、生活の安定があり秩序がありそれゆえに社会全体の安定と秩序があるからだ。この美風のかげに絶えざる重圧に苦しむ良人というあわれな犠牲者がある。(略)妻と言うものがこういう存在(引用者注:自分の足場をもたず良人の負担の上で生活する存在)であるかぎり良人はやはり妻に賢明さと貞淑とを要求し、その要求がみたされることによって自分の道徳性を維持することができれば充分なのではなかろうか。この考えは少なからず打算的であり、愛情が報酬を求めている態度でもある、私が最初に意図していた奪わざる愛、相手に与え育てる愛という最高の愛の定義は、一片の空想にちかい怪しげなものになってきはじめた。しかしまだ私はその考えに執着していた。(略)メエテルリンクの青い鳥は捜せどもさがせどもまだみつからない。(p.140)



なんでこれらの箇所にわたしは笑ってしまうのだろう?といえば、それは、現在ではほぼテンプレ化された「フェミ的にNGな男」の述懐が哲学的語彙で仰々しく飾られているから、やとおもう。「フェミ的にNG」っていうよりも、もはや、「ありがち悩み」というか、現代でもyahoo知恵袋とかで相談されてそーな、「彼女を殴るってやっぱダメですか?」「彼女を束縛しすぎてしょうか><」みたいな悩み、「ダメに決まってるでしょ」とか「それはDVです」とかさっくり回答されてしまいそうな悩みが、眉間に皺を寄せた「進歩的な男」によって鹿爪らしく語られているからや。それが「パロディ」のように見えてしまうのだろう。

また彼は、上の引用のように、女が良人に寄りかかって生活をすることを嘆き、あるいは、男性が結婚によってさほど変化しないのに対し「女性は全身と全霊とを結婚のなかに投げ込んでしまうようにみえる。精神的には良人のなかに没入して、妻の心以外の心をもてなくなってしまい、肉体的にも新しい成長と発達と交替とがなされて行く」(p.59)ことに驚き、そのたびに、「ああ!女というものはそういうものなのか!」的に感嘆するのであるが、それもまた、こんにちの「社会的に構築された論」に馴れたわれわれからすれば、「イヤ、『女とはそういうもの』でなくて、女が結婚生活に依存せざるをえない社会であったからそーなってるのではないですか」とツッコミを入れたくなるのであり、そうした発想がまるでないように見える彼の感慨はまるで、そうした「ツッコミ待ち」のネタのように見えてしまうのである。



で、「奇妙などくごかん」というたのはここであって、最後までわからなかったのは、そうした発想がまるでないのは、この主人公になのか、それとも作者になのか? というところなのである。

戦前の作品であるこの作品を、もはやわたしは現代の読者としてしか読めない、という事実のせいで、ここんところがどーしても最後まで分からずもやもやもやとしたまま、読み終わったのであった。(もちろん、当時の読者の声を調べる、ということはできる。あまぞんみたいなものはないが、文芸時評とか。)

つまり簡単にいうと、これって今読んでるわたしにはパロディに見えるし笑ってしもうたけど、それは作者の意図したところなのかそれとも作者はほんまにマジメに書いてたのか?ということ。




最後までずっと判断がつかず、だが現代の読者であるわたしには、前者にしか見えなかったので、ずっと、最後になんか「どんでん返し」が用意されているのかと予想しながら読んでいたのであった。妻の猛烈な反発にあって理想が独善的であったことに気づく、とか、あるいは妻が不貞をはたらくなどして妻の自我の存在に気づく、みたいな妊娠小説(c:斎藤美奈子)的なオチを。

が、そのようなオチではなかった。(なんかに気づくのではあるが、上記のようなことではない。)



亀井勝一郎の解説に書かれているように、「滑稽」は作者も意識しているのであろう。作者が完全にひとりよがりにこの主人公に没入しているわけでなくて、そこにはちゃんと客観がある。理想家だが理屈っぽい主人公は、ときにちょっぴり神経質すぎるように描かれる。が、どのレヴェルの滑稽を作者が目指しているのかが分からないのである。理想を目指す人ってときには大変だよね、というだけの滑稽なのか、この主人公全くのアホやろ、という滑稽なのか。



さらに読者(わたし)を混乱させるのが、「妻の台詞」である。

上の引用のように、地の文は、硬く仰々しい文体で書かれるのだけれど、妻の台詞だけ、まるで100年先の女の子のようなのである!


「結婚すると乳が黒くなるって聞いてはいたけど、本当なのねえ。嫌だなあ。元のからだにして返せ!」(p.59)

「だってうまいんだもの。困っちゃったなあ」

つづけざまに三つも食べてなくなると、

「もっとほしい!」と叫んだ。

「何を、畜生。もう一生焼売を食わさん」

「いやだ、明日も食う」

(80頁)

「わたし二十四よ、まだ青春よ。もっとお洒落をして誰かに口説かれたいなあ」

「そんなおなかをしてかい?」

すると彼女は頭を掻いて「いけねえ」と乱暴な口を利いた。「こいつさえいなけりゃ君なんか離婚してまた結婚するんだがなあ」

(102頁)

「君は僕を一歩も外へ出さないつもり? 閉じこめておく気? ひどいわ。黴が生えてやるから。たまには虫干しさしてよ。僕が早くお婆さんになったら君嬉しい? くすぶってると早く皺くちゃになるんだけど、それでもいい? いいならいいっていいなさい。覚悟しちゃうから…。ああ青春が惜しいなあ」(104頁)


とても、地の文の語り手である鹿爪らしい男の妻とは思えないのである。

作者はこの、主人公の語りによる地の文と妻の台詞のギャップをどう意識していたのだろう。ということも作品からはまるで見えてこない。そんなギャップはないかのように淡々と進んでゆく。それともこのギャップも、現代の読者であるわたしだけが感じるギャップなのかどーか。わからん!


気になって、他の石川作品も読まねばならない……と思い、古本屋で石川本を何冊か買ってきて『蒼氓』を読み始めた。こんなにわたしのハートを掴むとは、たつぞうよ。




※ 最後に、どうでもいい余談だが、この夫婦の会話を想像すると、福満しげゆきとその妻の図が浮かんでしまう。理屈っぽくごちゃごちゃと何やかや言い続ける夫に、「クソブタ」の一言であざやかに返す妻。



◇◇◇


いねこのことは次回書きます。

2011-04-12

最近電車で読んだ本

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後輩から貰うたので読んだ。だがジジェクはやぱりよく分からない(てか、単に難しくて読めない)。アブグレイブの話とか非常に気にはなるのだが。。




京アカサイトリニュのためにぱらぱら。見やすい配色やフォントなど、理論的にぜんぜんわかってなかったので、へー、と。

そんで分かったのだが、わたしが好きな配色やフォントはことごとく「見づらいものの例」に挙げられているのである!

わたしは、洗練されたデザインのサイトより、素人臭いサイトとか、あるいはいわゆる電波系サイトに惹かれる傾向があるのだが、こういうことだったのか!と分かった。京アカサイトはできるだけ本来の自分の傾向を排する方向でいきたいとおもいまつ。。



古典文法質問箱 (角川ソフィア文庫)

古典文法質問箱 (角川ソフィア文庫)

これはありがたい本! バイトのために読んだのだが、実際は受験には必要ない知識がほとんどなのだけれど、でも、単に「『ぬ』も『つ』も『り』もみんな完了の助動詞やで!」と教えるにしても、その背景にそれぞれどんな由来があるとされどんな議論があるのか、というのを知っているのではぜんぜんちがうとおもう。




要説国語学

要説国語学

これもバイト用に読んでる。堅い文体だが内容は堅実。




空腹力 (PHP新書)

空腹力 (PHP新書)

これも後輩に貰うた。東洋医学をベースに、空腹は健康にいいよ、という本(ほんとはもっといろいろ言ってるのだが)。空腹マニアのわたしとしては読まぬわけにいかない。

主張の根拠として、「原始時代には人間はこういう生活をしていた→だから人間の身体はこのようにできているのです」というのが多用されるのだが、この種の論法って、専門家からみるといかほどの説得力なのであろう?




女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム (青弓社ライブラリー)

女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム (青弓社ライブラリー)

ずっと読まねばと思っていてやっと読んだ。これについてはまた詳しく書きたいけど、少しだけ。

まずよかったところは、これまでのフェミニズムポルノの関係が分かりやすくまとめられていたところ(特に「行動する女たちの会」の再評価)。あと、読者アンケートの分析も面白かった。

疑問を感じたところは、最後の分析で、暴力的な内容をもつポルノグラフィが単に「異端」とされるのみであまり考慮に入れられていないようにみえたこと。

また、BLとレディコミが並列に語られているのはあまり見たことがないので、ちょっと戸惑った。もうちょっと議論があるといいんじゃないかと。本書での「ポルノグラフィ」の定義は、ざっくり、「自慰用」という定義のようだけど、BLを自慰に使うか使わないかというのは、2ちゃん801スレに議論スレッドが立っており、その多様性が分かる。



ところで(以下は個人的な話だが)、私は女性向けポルノって、なんか苦手なのである。フェミ系の人たちによる「女のためのポルノ/エロチカを作ろう!」という運動の一環として書かれたものを読んだこともあるけど、あんまり… であった。

それで、本書での、女性向けポルノの特徴が分析されているのを読み、そこで女性向けポルノポジティヴな点として挙げられている点がことごとく自分の苦手な点であることに気づき、そうだったのか! とおもった。詳述はしないが、「安全性の担保」とか「役割の交換」とか、あー、うち、それやられたら萎えるわー というまさに「萎えポイント」である。

女性向けポルノって、男性向けにおける氏賀Y太のような、ほんとうに変態的なものってないのだろうか? 女性の変態の語りをもっと聞きたい。強姦ファンタジーにしても、基本は勿論「それはあくまでファンタジーであって実際の強姦願望ではない」という言い方が正しいと思うが、もっとスレスレのファンタジーをもつ人の話も聞きたい。


それにしても、こうしたセクシュアリティ研究って、どーしても、自分のセクシュアリティに言及するはめになるのが大変である(「私はこういうセクシュアリティの持ち主であるので、こういう興味を持ち、研究を始めました」みたいな)。本書でも、著者が、子供の頃から自慰の習慣があったという話をしてるけど、こうした、他の研究なら言わんでいいこと・性的な興味をもたれがちなことを言わんとあかんので、それをどう言うかってとこで、それぞれ芸風が必要になるよね。

2011-02-01

 嫁姑続き

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嫁姑がいきなり自分の中でホットなテーマになり始めたので、永六輔『嫁と姑』を読んでみた。昔のコバルト文庫のように下半分の余白が多い……論っていうより箴言集&放談って感じだが、おもろいとこもあり。

嫁と姑 (岩波新書)

嫁と姑 (岩波新書)



  • その自虐は何?系

「<いやな姑に尽くす快感>てものもあるのよ。

 それが<嫁の意地>ってものよ」(p.18)


いいお母さんの介護よりも、憎い姑の介護のほうが生きがいがある。

ひどい姑の介護を真剣にすることで、自分はなんていい女だろうと思えるんですね。(p.97)



歴史は繰り返す系

「あんただけが姑にいびられている、と思うんじゃないよ。

 わたしだって、さんざん、いびられてきたんだからね」(p.20)


これやねんよなー とおもった。部活の、先輩にいびられてた下級生が上級生になって後輩をいびる現象である。上級生は、いまやいびる側なんだけれども、意識としては、被害者なんである。いま、団塊vs若者の対立みたいなんが語られるけれども、団塊vs若者の二項だけで考えてたらダメで、若者がモンスターのように感じているオヤジらというのは、本人らの意識としては、戦前生まれのオヤジのオヤジの前で依然力無い若者なのかもなとおもう。

といういみで、嫁姑問題というのは嫁姑問題の話だけでなくけっこう普遍的ななんかを持ってると思うんである。


なんか自由連想みたいな文になってきたが(いつものことだが)、

嫁姑といえば徳富蘆花の『不如帰』、昔読んだのを再読したくなった。嫁姑文学って意外にいろいろありそうだ。あと、森鷗外の「半日」、恐怖の『華岡青州の妻』など。

2011-01-31

嫁姑漫画

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わたしが生まれたとき家には大姑・姑・嫁がおり、嫁姑問題は幼い頃からそれはそれは大きな問題であったのであるが、それは我が家のことだけではなく、二世代三世代同居の多いわが地域では、どの家でもそれはそれはホットな問題で、今でも近所では姑さんらが道端に集まっては嫁disり大会を繰り広げる光景が見られる。

だが嫁姑問題は、一方でなんか下世話な興味をかきたてられるトピックでもあって、それを認識したのんは、昔『2時のワイドショー』(おそらく関西ローカル)で延々と続いてた1コーナー「嫁姑110番」を観ていたときだった。「嫁姑110番」は、番組内の20分くらいのコーナーで、嫁姑に関するミニドラマが二本立てで流されるのだが、陰惨な嫁いじめ姑いじめのオンパレード。(今でも覚えてるのは、意地悪な嫁が姑の杖を折って外出できないようにする話。泣き叫ぶ姑の顔が忘れられない。) みる度にイヤーな気分になるのだが、なぜかこのコーナーが好きで毎回みていた。だがそれはわたしだけでない筈で、このコーナーはけっこうな人気コーナーだったと思われる。いまでも、一冊まるまる嫁姑をテーマにしたレディースコミックが出ていたりする。男が女の喧嘩をやたら喜ぶというのはよくあるけれども(週刊文春の「女の嫌いな女」特集とか)、ワイドショーもレディコミも女性対象であり、嫁姑関係に悩む当事者でありながら嫁姑バトルをエンターテイメントとして受容する女性の心理とはいかに。

というようなことが前から気になっている。



先日いもうとがなぜかその、嫁姑レディースコミックを買ってきたので、読んでみた。


ほんとうにこわい嫁・姑 2011年 03月号 [雑誌]

ほんとうにこわい嫁・姑 2011年 03月号 [雑誌]


『ほんとうにこわい嫁姑』2011年3月号(宙出版)。15本ほど収録されている漫画のうち、2.3本を除いてすべて嫁姑モノという雑誌。「嫁姑110番」と違って、いずれも嫁が主人公(今月号だけなのか毎回そうなのかは不明)。表紙のコピーがもうすごい。「大特集 現代モンスター姑 もう死んでッ」「お義母様に殺される~」。

では嫁姑漫画の世界をちょっと覗いてみましょう。

ネタバレしているので、「この雑誌楽しみに読んでるの!」という方――もしおられたら――はご注意を。)


  • 阪口ナオミ 「杉子デラックスという女」(巻頭カラー)

マツコデラックスにそっくりな巨体の姑。食べることが趣味。働く女性に厳しく、嫁がパートに出ようとするのを阻止。嫁は不妊に悩み、原因が姑ストレスだと考える。夫も嫁をかばうが、姑は「あんたが妊娠できないのはあんたの根性が腐ってるから」と一喝。嫁、はっとする。姑を跳ね返さず自分の弱さと未熟さを認めればいいのだと悟る。そんなとき姑が骨折。嫁、妊娠する。生まれた子は姑似。(ハッピーエンド?)


  • 山崎えり「元気すぎ!山ガール姑」

山歩きが趣味の元気な姑。口うるさい。あるときから人間関係のことで山歩きサークルに参加しなくなり、家にいて嫁に小言を言い続ける。嫁、腹を立てるが、娘の一言で思い直す。姑は嫁のアドバイスで山歩きを再開、丸くなったかと思いきや性格は相変わらず。(「やっぱりカワイクない!」と叫ぶ嫁のコミカルなショットでオチ)


  • 伊東爾子 「暴走!モンスター姑」(注:「姑」に「ババァ」とルビ。)

非常識な迷惑行動で近所でも有名な姑のおかげで謝りどおしの嫁。(姑は鬼のような形相に描かれている。)嫁の妊娠した子がまたも女の子らしいと分かると、姑は堕ろせと命じ、医者に苦情を言おうとする。止めようとしたところを突き飛ばされ、嫁は出血するが腹の子は無事だった。「今までごめんな」と夫。家を出ることになるが、そんなとき姑が事故で入院、身重の身で介護の日々。姑の声の幻聴が聞こえ始め、ついには姑の尿をかけられるなどのいびり。「神様これは何の罰ですか、私が悪いんですか」。夫は介護を手伝わない。スイカ事件で嫁キレる。「とっとと死んでしまえ!」。姑はその後肺炎で死ぬ。生まれた子は男の子だった。男の子と知ったらあんな姑でも喜んだだろうか。女の子だったら姑の生まれ変わりみたいだから、女の子じゃなくてよかった。姑が死んで喜びの涙を流す嫁。


読者投稿をもとにしたダメな姑のショートストーリー。最後は作者の母のオマヌケ話でなごませる。


  • 川中島みゆき「この笑顔のために…」

息子がADHDだった、という話。姑はあんまり登場しないが、息子の落ち着かなさに、躾が出来ていないと嫁を責める役。


  • 井出智香恵「ひとりぼっち」

出張の多い夫。早く孫がほしい姑(口うるさい。仕事をしていて華やか)。幸せだった嫁、子宮頸がんの告知を受ける。当初は姑も気を遣っていたが、次第に苛々し始める。「あんたもとんだ女にひっかかったもんだ」。子宮全摘後、さらに手術費用が要ると聞いて、「どうせすぐ死ぬ嫁じゃない」と怒る。それを聞いて自殺をはかる嫁、止める夫。だが、その様子を眺める姑の目は嫁の死を望んでいた。嫁は夫を巻き添えにして無理心中。姑、嫁の日記を発見して後悔。


  • かわばたまき「マタニティピッグ」

あんま姑関係ない。赤ちゃんの面倒を見てくれるいい姑として登場。全体としては、産後家事労働ダイエットになるからいいという話。粉ミルク<母乳、紙おむつ布おむつ


  • 赤木梨宇「わたしはお手伝いさん? 嫁姑帰省バトル」

娘を連れて夫の田舎に帰省。内情は火の車のくせに姑は名家気取りで嫁いびり。奴隷のような扱いを受ける嫁。娘に対しても「女の子ひとりだなんてご先祖様に何て言ったらいいか」「産まないほうがマシ」の暴言。夫も気にかけてくれない。さらに娘までひどい目に遭い、「無給のお手伝い」呼ばわりを受けた嫁「許さないッ」。寿司を大量に注文、義兄にいたずらメール、などの復讐。もう二度と帰省はしません。


変則的に小姑モノ。

子宮頸がんを告知された嫁。娘のため精一杯生きると誓う。そんな家へ、離婚した小姑が帰ってくる。(嫁が女性らしい美貌に描かれるのに対し、小姑は頬骨が出て三白眼というぎすぎすした風貌に描かれる。小姑は家事もせずパチンコ浸りの怠け主婦であると語られる) 体力の衰えた嫁に、わがままを言う小姑とその味方をする姑。小姑の嫁いじめはエスカレート。娘までいじめ始め、夫との時間を邪魔する。「大事な時間を邪魔されたくない」と訴えるが、夫は寝たふり。実は小姑も子宮体がんを患っていたことが明らかになる。そのせいで離婚されたのだった。それでも、自分と違い、何かを遺そうともせず夜叉になった小姑を同情する気にはなれない。嫁は娘と家を出る。ちょっと改心する夫。


  • 青木泉「見くびらないでよっ」

高卒で出来婚だということで、嫁をいびる姑。「みっともない恥ずかしい」「みっともなくて恥ずかしい嫁を選んだのはあなたの息子でしょ!」。生まれた息子にも「お母さんはバカだから」と吹き込む姑。だが学校でネットを教えるようになると、現代っこの嫁が姑より優位に。息子、「お母さんをバカっていっちゃだめ」と嫁をかばう。赤面する姑に、嫁「くすっ」。


  • 椎名あや「私は"ぶりっこ"嫁」

嫁は元ヤンだが姑には秘密。口うるさい自分勝手な姑にも服従。「今度こそ真面目になると決めて結婚したんだもん」。だが、姑が娘を「こんな子生まれてこなければよかった」と言ったことからガチ喧嘩。実は元ヤンであることはバレており、姑は、嫁が水臭いことが寂しかったのだた。姑も実は元ヤン


  • 川島れいこ「老いらくの恋」

若い男に恋する大姑。嫉妬しない大舅。眉をひそめる姑。大姑に協力的な嫁。


  • 丹羽珠央「天誅が下る瞬間」

再婚の嫁をいびる姑。「薄汚れた中古女」「生娘に生まれ直せ」「息子は騙されてる」。夫はかばってくれるが、姑に踏まれたことや味噌汁をかけられたことは夫にも言えない。いつか姑の上に立ってやると誓い、痣だらけの顔で夜まで拭き掃除をする嫁。夫、怒る。姑は、嫁がかつて前夫の暴力で流産していたことをばらすが、夫は動じない。「母さんよりそっちを選ぶなんて…」ショックを受ける姑。夫の出張中、嫁と腹の中の子を殺そうとする姑。姑は転んで寝たきりになる。嫁幸せそう。


  • 読者投稿コーナー

嫁姑川柳など。


全体として気づいたこと

・息子率より娘率が高い(そして娘は、女の子であることを非難される)

・子供に被害が及ぶことによって嫁がキレるパタン

・子供を堕ろさせようとする・流産させようとする事件によってキレるパタンも

子宮頸がんが二作品でテーマになっているのが気になる。(実際若い女性に増えている病であることもあるが、「子宮」という女性特有の器官の病であるということになんかありそう)

・殺される寸前の仕打ちを受けていながらなぜか別居しない

・夫は概して存在感なし

2010-12-15

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金輪際

金輪際

読んだ。

短編がいくつか収録されていてどれもいいが、特に最後の、私小説的作品「変」の気迫が凄まじい。

入選したのは、保坂和志氏の毒にも薬にもならない平穏な日常を書いた「この人の閾」(新潮三月号)という作品だった。記者会見で、日野啓三が「こういう物情騒然とした世の中にあっては、何事も起こらない静かな日常がいかにありがたいか、を感じさせてくれる作品である。」と言うたとか。おのれッ、と思うた。

翌日、所用があって小石川柳町のキネマ旬報社へ行った。烈しい日盛りの道を歩いていると、水のないプールの底に、私の屍体が沈んでいるような気がした。用を済ませて、夕方、また歩いて帰って来ると、私は道灌山下の金物屋で五寸釘を九本求めた。

夜になった。私は二階で白紙を鋏で切り抜いて、九枚の人形を作った。その人形にそれぞれ、日野啓三河野多恵子黒井千次三浦哲郎大江健三郎丸谷才一大庭みな子古井由吉田久保英夫、と九人の詮衡委員の名前を書いた。書き了えると、嫁はんが寝静まるのを待った。

私は金槌と五寸釘と人形を持って、深夜の道を歩いていた。旧駒込村の鎮守の森・天祖神社へ丑の刻参りに行くのである。私は私の執念で九人の詮衡委員を呪い殺してやる積もりだった。(pp.262-3)



この人の作品は、『赤目四十八瀧心中未遂』を以前に読んで以来なのだが、どうしてか、この人の文体が好きである。然し、文体が好き、ってどういうことなのだろう。内容がどうのこうのというより文体が好きなのである。が、内容/文体って分けられるのか、一体なのではないか、とも思う。

以前に病跡学会で漫画のシンポをやったときに、ある先生が、「漫画には絵による効果がある、文学はそれに勝てない」みたいなことを言っていらして、まあ「漫画>文学」論自体はよくある論だと思うが、それで、だが文学には文体があるではないか、漫画の効果に当たるのが文学だと文体ではないでしょうか、という話になったとき、その先生は、そうした文体をもつ作家として、車谷長吉を挙げておられ、あーなるほどなーと思うた。然し、文体って何か。




文芸時評

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きのうの続き。

文芸時評 現状と本当は恐いその歴史

文芸時評 現状と本当は恐いその歴史


これはべんきょうになった!

文芸時評という、日本の純文学に特有の文化について詳述された本。こんな目を引く副題つけなくてもいい本なのに…と思う。

本書は、いくつかの村上春樹海辺のカフカ』評を比較するところから始まる。この作品について、ある批評家は絶賛し、ある批評家は酷評する。なぜこうしたことが起こるのか? そして読むことのプロであるはずの批評家の間でこんなに意見が違うなら、読者は何を信じればいーの、文芸時評の役割て何やの、と。

村上春樹に関しては、その一般の高評価や売れ行きに反し、実はわたしはぜんぜんその良さが分からないので、つねづね、「世間の評価がおかしいのか? それともわたしに何らかの文学的感性がないのか?」と思っていたのだった。単に「その作品が好きな人もいれば嫌いな人も、分かる人がいれば分からない人もいるよね(人それぞれ)」ってことなのかもしれないが、それで終わってよいものなのか。だってそれなら批評っていらんよね。

それなら作品の究極の価値決定者はだれなのか。これは文学作品の価値評価をめぐる根源的な難問である。作品評価において統一基準や公理のようなものが存在していないから、評価のバラツキや懸隔が発生するのである。ただ個人によるあらゆる主観的な判定が成立可能だとしても、われわれは直感的にその判定のすべてが正しいとは感じていない。理論的にうまく説明することはできないが、文学的素養に恵まれたいわゆる高級読者や一流とみなされている文学者なら、おそらく直感的・感覚的にどの見解がもっとも妥当なのか、だいたい分かるところがある。この文学的直感とは、文学共同体とでもいうべき、ある一定の限られた読者層の素養や、好尚と重なり合っているところがある。(p.33)




で、そうした大きい問いを念頭において、本書は、森鷗外から現代にいたるまでの文芸時評の歴史を紐解いていくのだけれど、これが、知らないことだらけで面白かった。それぞれの時評子の立ち位置や芸風、またはそのときどきに起こった論争などが紹介されており。

それぞれの時評は読んだことがあっても、それぞれの全体的な立場や芸風って知らなかったので、べんきょうになった。

印象に残ったところをメモ的に挙げておくと、


・「純文学は死んだ」論は、昔々から言われていたのかっ

・あの文芸時評に特有な不機嫌さも、昔からの伝統であるらしいこと。(なんであんなに不機嫌そうなのだ? わたしは文芸誌が苦手なのだが、苦手な理由はたぶんこの不機嫌さだとおもう。)

・全体として、戦闘的批評から「ホメ批評」へ変わってきたということ。また、文芸誌の作品をひとつずつ取り上げる形から、単行本を取り上げる形に変わってきたということ。

・女性の時評子の名が現れるのは河野多恵子まで待たねばならない。(先日「文芸時評は男の世界」と書いたがたしかに。)



小林秀雄の批評は、当時の大きな文学史的トピックであったプロレタリア文学vs芸術派との対立の中で、後者からの批評として現れたものであったこと

山本健吉による「講壇批評家」「平批評家」「創造的批評家」の分類。・「文学」以外の作品を取り上げる、井上ひさし高橋源一郎の流れ

・戦後。外国文学を専門とする時評子の多さ。

・印象批評というもの

etc


これらのことや、それぞれの立ち位置を念頭において時評を読むと、今後はより面白く時評が読めるし、その時評について判断する際の助けになるであろうので有難い。

で、だが、では批評はその批評家の個人的な立場や感覚に左右されるん? という最初の問いに戻るわけで、「客観的な批評は果たして存立するのか」と題された最後の章ではモウ一度この問いが繰り返されている。それに対する著者の回答を要約しておくと、


・広義の、とりあえずの客観的な批評というものはあるだろう。

・しかし突き詰めると、批評とはすべて主観的であるといえる。(小林秀雄の「印象批評」、正宗白鳥の「私批評」「実感批評」)

・問題なのは、それが、党派性や打算に汚染される可能性があるということ。(かつての「印象批評論争」で指摘される)


広津和郎「文芸が解ると云う事が、文芸批評家の資格」

・日本では、アカデミックな研究とジャーナリスティックな批評とが分かれていることがここに関係してくる。新批評のような文学理論がないことが、印象批評の多さにつながっている?

・ところで「文芸が解る」とは?

・素養ある玄人としての直感・実感を示す、文壇イデオロギー用語であった。川端康成の説く「文学的・文壇的勘」

・だが文壇が崩壊した現代では空言では。


・印象批評は一度乗り越えられた方法だが、実際に印象批評による批評がすべて無効とはいえないとこが難儀

・(究極的には主観的であっても)それを判定する客観的妥当性がある。

・じゃあその「客観的妥当性」を保証するのは誰。

・フィッシュのいう「解釈共同体」、読者反応論・読者反応批評

・でもその中心になるはずの文壇が機能してないわけで。

・さらに、解釈共同体は特権的なもの・自閉したものになる危険も。

・多用な無名の市民的な解釈共同体、という概念(レントリッキア)


というように、いくつかの思想家や批評家の論を行き来しながら(なんだかループ感)、レントリッキアのいう「理想的な批評家」の概念が、いちおう結論めいた感じで提示されるのだが、そうした、純文学の読みを一般読者に提示し商業主義に惑わされないことで、純文学を凋落から救いうる「理想的な批評家」の可能性に関しては、著者はどちらかというとネガティヴである。本書は、その、純文学の凋落の現状を提示して、結ばれる。


とここまで読んで思ったのだが、「文芸時評って何」という問いは結局「純文学って何」という問いと切り離せないようだ。本書のどこかでも、誰かの言葉として、純文学とエンタメの定義として、「批評を必要とするのが純文学」という定義が書かれてあった。で、純文学とは何か。

私は、笙野vs大塚の純文学論争を興味を持って読んだが、そこでやっぱり分からないのは、で、純文学って何か、ということだった。

なんとなくそういうものが存在するようだ、ということは分かる。が、それは「分かる」というかもはや信仰の域かもしれず。一般的には、商業主義から離れた位置に立ち、単なる娯楽と一線を画すのが純文学、ということになるのだろう。だけど、作家が職業作家である限り、完全に商業と無関係である文学作品はありえないし、また、読者が何かの快を求めて読む限り(その求める快の性質がエンタメ文学とは違うのだとしても)広い意味ではすべて娯楽だと思う。……などということも内包したうえでそれでも書くのがわたしにとっての「純文学」のイメージなのだが(そしてそういうものが「純文学」だとするとたしかにそういうものとはあまり出会えないのだが)、それこそ、定義というか、個人的な信仰になってしまう。


と、話が逸れたところで終わります。

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