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アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



もともとは「京都アカデメイア」スタッフのグループブログの一つということで始めたブログですが、現在は個人的な雑記として用いています。心にうつりゆくよしなしごと等を記録することとします。

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2014-02-25

少年愛の美学

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稲垣足穂少年愛の美学』を(何度目かの)再読してるんだけど、何度読んでも「コウ祭」(と勝手に命名)のくだりが最高すぎる。

「『お尻』は『人』と同意語である。ためしに次のような単語の『コウ』を『肛』におきかえてみよ!」(河出文庫版66頁)と言ったのちに、次のように続きます。


高野山弘法大師幸若舞香気講道館、攻玉舎、公爵、校長、高士、高級、恒例、工員、公務員、公開実験、交通機関、行動派、硬派、高弟、膏薬、黄禍、後患、公徳、公選、鴻恩、行人、行楽、交歓、幸福、厚志、交情、好意、後見……いずれも間違いなく成立する。中でも、光音天、興聖寺、広隆寺紅楼夢、孔門の十哲、校友会、工事現場、好事魔多し、鴻門破り、後納、後楽園好色一代男、紅一点、紅衛兵、光陰矢の如し、高射砲、工学博士、公安委員会、公教要理、講和条約、皇国興廃、公衆便所、後期印象派などはそれぞれに傑作である。漢字ではないが、「アフター・サーヴィス」がある。


「いずれも間違いなく成立する」!! なんと力強い断定! ていうか「成立する」って何を以て?? という素朴な疑問を差し挟む間もなくさらに畳みかけるように、



以上は最初に『コウ』が付いている例だが、二字目、三字目、四字目の『コウ』においても同様に成立する。いっそ身辺の任意の一冊を取り上げて、全ページに亙って『コウ』を『肛』におきかえても、なお十分に成立する。この事情は即ち、われわれが鳥族のような『肛門派』に他ならぬ一事を、(あらゆる男女が結局において「尻男」であり「尻女」である所以を)証明するものである。



なんだかもう、圧倒的すぎて笑いが止まらない。

この事情(そんな事情があるんかい!)によって われわれが尻男であり尻女であることが証明されてしまった!! というところで、読者(私)の昂奮は最高潮に、いや、肛奮は最肛潮に達したのでありました。

さらに、「何故なら……」と続くので、おお現代文的理由説明が、と思ったらば、


何故なら、「チツ」を以てすれば、決してこのような効果は上らない。


何が「何故なら」なのか、なんかよう分からんけど自信満々!


入試シーズンでありますが、入試現代文でこんなのがでたら面白いだろうなア。

2013-11-13

雨の日の大学トマソンなど

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雨の秋の日に、大学を歩きました。



文学部東館中庭。雨に朽ちる京大生。


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ヨーロッパ庭園に布袋さん。


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工学部中庭のトマソンの楽園にいきました。


天国への階段

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だが、これ、階段ではなく、どうやらテニスの審判席のようです。今駐車場になっているところが、テニスコートだったようです。テニスコートが半永久的に存在するとき考え、このような、堅牢な審判席を作ったのでしょうか…。


階段トマソンとしては、これとは別に、工学部純粋階段が有名ですが、工学部純粋階段はトマソンとして保護されており、しかもあろうことか「純粋階段」という看板まで立てられており、その在り方はトマソンとしてどうなのか? と疑問を禁じ得ません。トマソンは、トマソンとして尊重され始めた途端トマソン性を失ってしまうというパラドキシカルなものでありますね。しかし今回そちらも訪れたところ、「純粋階段」と書かれていたはずの看板が雨風に晒されて文字が読み取れなくなりつまりそれ自体トマソン化するという現象が起こっていました。




チョコレートの滝みたいなやつ。

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右端、生き埋めを思わせる。

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フランクフルト

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この日、「外蛇口」という概念を知りました。大学には、外蛇口が多いようですが、これは中でも珍しい、三頭外蛇口だそうです。じんかんのフラクタル日除けのところに作られていました。こんな灯台下に珍しい外蛇口があったなんて。。

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工事中のところにかっこいいやつがいました。

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2013-11-01

河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第4回)

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id:may_ca:20131028#p1 から、「蟻たかる」の話の続きです。


この、史子に生理が訪れた(訪れてしまった?)ときの描写も、上手いなあ、わかるわかる!と思いながら読んだのでした。

まず、史子は安堵します。そして、遅れていたのはそもそも自分の緊張と怖れのせいでないかと考えます。例の、留学のことも心に甦ってきます。しかし、その夜、ふと、

見馴れた、のれんも廊下も板戸も壁も柱も、ここ数日の間にひどく豊かさを増し、それが今、急激に痩せ細ってゆくのを、彼女は知ったのである。(p.43)

という気持ちになるのであります。

史子は松田に妊娠が間違いであった旨を告げて、泣きます。

まるで子供を熱望してきて又憂き目を見た、石女みたいだ(p.44)


次第に産む方向へ話が傾いていたとはいえ、そもそもは子供が欲しいわけではなく、むしろ忌避していたというのに、腹の中に何もいないことが分かるや起こるこの虚脱、何なのでありましょうか。

腹の中にいるかもしれぬ新しい生命へ次第に集中し張り詰めてゆく注意、それをめぐるあれこれの空想で充たされ始めた日常と未来が、ぱちんと弾けた感覚。まあこの感覚って、妊娠に限らず予期していたものが外れたときに感じられる一般的な感覚であるのかもしれませんが、この場合のそれを表わすのに、「豊かさを増し」たものが「急激に痩せ細ってゆく」とは、からっぽになったその腹(実際はもとよりからっぽであったわけですが)をも連想させ、上手い表現であるなあと思います。


で、ああ、失ってみて初めて認識できるまだ見ぬ子への思い、出産への思い、やっぱり母性本能(※)が彼女の中に育っていたのね、と読者は思いそうになるわけですが、話はこの後、思わぬ方向へ進むのです。

(※ちなみに著者はそのエッセイで、人間の、子孫を残すという本能を、母性本能でなくたしか「建設本能」というちょっと変わった言い方で論じていました。死すべき運命にある人間には、仕事で何か達成するとか家を建てるとか何かを成したい本能が備わっていて、子孫を残すこともそのひとつだというのです。「夢の城」という作品ではこの「建設本能」がテーマになっています。)



妊娠が間違いだったことを松田に告げた史子は、でも、いつか本当に松田を喜ばせる、「あんまり遅くならないうちにそうする」と約束します。そして二人は、生まれる子についての想像を語り合います。

もし女の子だったら、と史子は想像を語ります。

「女の子にはきついわよ。あなたが飛び切り甘くって、わたしがあんまりきついから、知らない人には、継母かと思われるかもしれない」

言いながら、史子はふと、その継子と思われるかもしれない自分たちの子供の実感が胸に湧くのを覚えた。(p.44)

史子は「数日来の懸念」から解放されたことでよりその「実感」に刺激されるのです。

史子の想像は次のように続きます。

女の子だったら学校にもやらない、贅沢なんかさせない、女中みたいにこき使って、朝早く叩き起こして、私はその間起きないであなたとこうしている。自分の意見のない、口答えのできない、白痴美みたいな子がいい。中学を出たらお嫁にやる、etc…… 翌朝、朝食のバターをきらしていたことを思い出し、史子は更に空想に耽ります。子供がバターを買い忘れたときの虐待の空想です。口許を抓りあげ、服を剥いで全身を抓りあげ、買ってきたバターをスプーンで熱して溶かす――娘の背中に落とすためです――その娘の背中には既にたばこで焼かれた痕がある―――。

この空想によってか「高ぶって」きた史子は、出産の話をしながら、松田に加虐を求めます。

「――とても赤ちゃん産んであげたいけど、わたしは好きじゃあないでしょう」「――だから、あなた、わたしに命じて頂戴」「――ね、命じて頂戴。――強制して頂戴」「苦しくって、暴れるかもしれない。あなた、縛って頂戴。それでも足りないかもしれないわ。そしたら、ぶってくれる? ――縛られながら、ぶたれながら、するお産っていいでしょうねえ。――そんなお産なら、早くしてみたい。――ね、早く!」(p.48-9)




この史子の言葉に応え、常の彼らの習慣なのでありましょう、「魚釣りの趣味もないのにそこに納ってある継ぎ竿」を松田は押入れから取り出します。

ええええ!?

そして、読者(私)をぽかーんとさせたまま、物語は終わってゆくのです。


な、なんだこれは!

出産を忌避してきた晶子は、マゾヒスティックな妄想を経由して初めて、「そんなお産なら、早くしてみたい」とお産を肯定するのです。また、初めて「実感」を得た自分たちの子供について、サディスティックな虐待の空想を繰り広げ、そうすることで性的に高ぶるのです。

前半で、「妊娠したと思ったらしてなかった、がっかりしたけど自分の母性に気づいた」的な話かと思っていたら、まったく予想だにしない展開……!




ちなみに、「蟻たかる」という奇妙なタイトルの理由がやっと明らかになるのは、ラストシーンです。

(※そういえばフロイト的には「虫がたかる夢」は妊娠の隠喩なんでしたっけ、フロイトもなかなかやるなあ…)

初夏の縁側に座り、松田の折檻を受けた後の体の感じに浸る史子。その後、台所に、蟻にたかられる牛肉を見つけます。牛肉は松田が史子の疵痕に貼ってくれていたものでした。史子は、自分が家庭的でないため(つまりミルクやキャラメルを欲する子供もおらず砂糖を用い煮物をすることもないため)「砂糖類に縁遠い世帯」であるこの家にも、これだけの蟻がいたことに驚くのでした。


ここで出てくる「砂糖」は、実は先の、娘を虐待する空想にも登場します。

小さな頃から「家庭的なことばっかり」仕込んで中学出たらお嫁にやる、という史子に、松田は、

「貰った砂糖、きみに内緒で持って行ってやるんだ」「だって、きみは煮物なんかしないじゃないか。砂糖、余っちゃってる」

と言うのでした。ラストシーンで明記されるように、砂糖が「家庭的」なものの象徴であるとすれば、松田によって史子の使わない砂糖を与えられ(空想の中でですが)、「家庭的なことばっかり」仕込まれたこの娘は、史子のもたない部分の凝縮であります。また「自分の意見のない、口答えのできない、白痴美みたいな」この娘は、史子のように、子供をもつことを忌避したり出産か留学かで悩んだりはしないことでありましょう。言うなればこの空想上の娘は、やはり空想中で松田に命令され強制され縛られて産む史子の分身であるのです。実際、折檻される空想の中で許しを乞う娘の口ぶりは、「松田に一層苦痛を求めるときの言葉とそっくり」なのです。

空想の中でマゾヒスティックな出産をすることになる自分と、空想の中で自分に折檻を受ける(その出産によって生まれるはずの)娘が、重なっているのです。なんというセルフ妄想装置……

このサドマゾヒズムは、それっぽく解釈すれば、「自分とは違う家庭的な少女として造型した娘への嫉妬からのサディズム、および、その娘への同一化としてのマゾヒズムによって女としての自分を受容」とかなんとかまとめられそうですが、そんな単純な図式やないんじゃ、という気がいたしております。なんというか、大事なのはむしろこの、セルフ妄想装置の産出性ではないかなあ、という気がするのですが、このへんはちょっと上手く表現できないのでまた。



さらに史子は言います。娘の聟(もちろんこれも空想上の)がわるい亭主になって放蕩するように、松田は素敵な女性を見つけても諦めて、娘の聟に「お砂糖運ぶように」届けてやって――。娘が愚痴をこぼしに来ても、「わたしの躰を見せて」「お父さんだって、こんなに酷い男なんだが、お母さんはこらえている」と言ってやって――。

……なんだこの空想???

しかし、このわけのわからん空想の中で、史子の欲望大団円を迎えているようです。子供を産みたくない史子は「自分以外の女性を松田に許す寛大さも持ち合わせていなかった」が「松田の父親ぶりを見たい」という矛盾する欲望の間で宙ぶらりんであったわけですが、この空想の中では、松田に他の女性を諦めさせ、かつ、松田の父親ぶり(松田は娘に砂糖を運ぶ)を見ているのですもの。

そして、ここで娘の亭主に運ばれるお砂糖は、娘に運ばれるお砂糖とは少し意味合いが違います。娘に運ばれるお砂糖は、史子のもたぬ「家庭的」なものの象徴でありますが、娘の亭主に運ばれるお砂糖は、家庭の外の女性たちの比喩なのであります。



(つづく? かもしれない……でも疲れてきたのでここで終わるかも)




※201702追記:その後ろんぶん的なものにまとめてみました。http://ci.nii.ac.jp/naid/40020318494

2013-10-28

河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第3回)

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id:may_ca:20131020#p1 のつづきです。


前回は「臺に乗る」という小説を紹介しましたが、同じ時期に読んだ「蟻たかる」も同じくらい面白かったのです。こちらはちょうど一年前に、同じく『文学界』に発表されたとのことです。


こちらも、テーマは「臺に乗る」に似ていて、主人公・法律事務所に勤める史子の生理が一週間遅れている、というところから物語は始まります。史子は、六年前に結婚した、ひとつ歳下の夫・松田と暮らしています。史子と松田は、「臺に乗る」の丈子と戸川同様、子供を避けてきた夫婦、しかし単に生理周期に従ってしか子供を避けてこなかった夫婦です。

史子と松田は、サド=マゾヒスティックな性愛を好みます。史子は松田に、道具を用いて責めてもらうことを好み、そうした苦痛を与えることを省略されたときは、不満を感じます。ちなみにこうしたマゾヒストの女主人公(しかも、単に受動性としてのマゾヒズムでなく、能動マゾヒズムとでもいうのか、性愛においてのみ積極的に苦痛を望む女性)は、デビュー作以来河野の作品に頻出する、おなじみのキャラです。


さて、生理が遅れている史子は、先日の、まさに「苦痛の快楽を省略した性愛」で受胎の怖れにつきまとわれてしまったことを、不快に感じます。松田に、「受胎したような気がするわ」と告げるのですが、このとき、「言ってやった」という表現が使われているのが可笑しい。松田は、「だけど夫婦の間で、ごめんよ、というのもおかしいね」と応えます。

史子たちは、先に留学の予定があり、このタイミングでの妊娠は困る、というかそもそも、史子は子供がほしいと思ったことはないのです。


ここで面白いと思ったのは、妊娠をめぐる微妙なずれです。

生殖がもはやわれわれにとって自然なことではない、というのは自明であると思われます。たとえば、妊娠なんて自然現象のはずなのに、同じ妊娠でも、未婚の状態で起これば眉を顰められ揶揄され、既婚の状態で起こるならばおおっぴらにめでたいものとされますよね。肉体的に、妊娠可能であるか否かということ/社会的に、妊娠が良しとされる状態かどうかということ(年齢や経済状態の如何、結婚しているかどうかなど) の間にはずれがあり、現代においてはそれはもう最初から、大きくずれているわけです(多くの人は10代前半のうちから妊娠可能ではあるが社会的にその年齢での妊娠は可能ではないとされている)。

で、更に、史子たちの場合は、社会的には妊娠しても何ら問題のない婚姻状態にあるわけですが、さらにここで、個人の心理として、妊娠可能であるか否か、という問題があるわけであり、そのずれがあるわけです。心理的な可能不可能と社会的な可能不可能とは、なんとなくすんなり一致するものであり一致していることがあらまほしきことと考えられていることが多いと思われますが、実はそうではないわけで、先の史子と松田のやりとり、とりわけ「夫婦の間で、ごめんよ、というのもおかしいね」という松田の台詞には、このずれが控えめな形であらわれており、面白く思います。

史子が、苦痛の快楽を伴わなかった性愛によって妊娠したことを不快に思っている、という点も面白い。要は、つまらんセックスで要らん心配を抱え込んでしもうてええこと何ひとつあらへんやんか、ということなのですが(べつに関西弁にする必要はないのだが)、世で言われる「母性愛」はここに一ミリもないで!


が、この後、史子に、世で言われる「母性愛」のようなものの片鱗が育ってゆくような描写がなされるのです。



当初、史子は、次のような心境でいます。

子供を産み、育てることなど、思っただけでも厭であった。今度、生理が遅れてからも、怖れ、松田を恨み、処置を思うことに屈託するばかりで、希望的な想像はまるで湧かない。そんな彼女にとって、松田の言葉はひどくこたえた。あれほど誓い合っておきながら、松田がこっそり子供を想うようになり、自分には兆しそうもない親としての感情を早くも味わっているらしいのを見ると、彼女は裏切られたような、妬ましいような気持に陥った。(全集2 p.41)

「松田の言葉」とは、「(子供が)ひとりくらい、いたっていいんじゃないの」という言葉です。二人は子供をもたないことを「誓い合って」いたにもかかわらず、夫は今や気楽にそれを裏切るような言葉を言い、一方で実際に子を宿すほうの史子には、いっこう母性らしきものが芽生える気配はありません。

「臺に乗る」においても、丈子が夫に望むこととして、

子供は絶対に欲しくないと、戸川にはっきり答えてもらいたかった。

子供なんて要るものか。ふたりで楽しく暮らそうよ」という言葉を聞きたい。

という望みが描かれていたことが思い出されます。


さて、そんな史子でありますが、松田と子供の話をするたび、次第に気持が変わってゆくのです。トイレに行き、生理がまだ来ないことを報告する言葉は、「まだ、大丈夫よ」「嬉しい?」という言葉に変化していきます(「大丈夫よ」=「妊娠している可能性は継続しているわよ」)。ついに史子は松田に、「産んであげるわ」と言うのですが、このくだりの描写も絶妙です。史子の変化は、一見、妊娠したことで自然に起こる心境の変化、自然な母性愛の発露に見えるのですが、依然史子は「生理を願う気持ちが退かない」し、「子供が欲しいと感じられない」のです。しかし、松田の子供の話を聞くのは嫌ではなく、「松田の父親ぶりを見たいという気持ちは激しくこみあげる」。つまり、史子の子供を望む気持ちは、自然に子供を望む本能的な気持ちのようなものがあるとしてそうしたものとは乖離しているのです。


しかしそんな変化の中、生理が訪れます。


(つづく)

2013-10-20

河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第2回)

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id:may_ca:20131016#p1 のつづき


「臺に乗る」の話のつづきです。

産める-産めないという一見明らかであるように思われる問題のあいまいさ、そして、この物語においては、産みたいのか-産みたくないのか問題のあいまいさ、がそれに先立ってある、という話でありました。

以後、そもそも自分は産める身体ではないかもしれないのだ、と気づいた丈子の生活と心情の描写がなされるのですが、この描写の行きつ戻りつ具合がとても面白い。一見、物語の本筋(いやそもそも、本筋、ってなんなんだ)と関係なさそうな、丈子の趣味の話など。

この趣味には、フロイト的には何らかの象徴的な意味を読み取ることもできるのかもしれませんが、私は、この描写抜きでは単なる生産する身体(あるいは生産しない身体――いずれにしても生殖機能だけに焦点を当てられる身体)に還元されかねない女性主人公が、人格や日常をもつひとりの人間であるということを想起させるという点で重要な描写であると感じました。

ここを面白く感じたのは、昨今(に限らぬのかもしれないが)、女性を産む性として取り上げるとき、あまりに個別の人格の存在というものが無いことにされていると感じていたからです(まあ何らかの問題を大きな視点から取り上げるときには避けられないことなのかもしれませんが)。

産む産まない問題が語られるとき、そこで語られる女性というものは、端的に産んだり産まなかったりする身体であって、そこで、個別の微妙なグラデーションというものは無視されています。個別性が語られるとすればせいぜい、「キャリアとプライベートとの間での葛藤」程度であり、「産みたい」「産みたいけど事情があって産めない」という二種類と+αの類型全女性は分類され、その周囲に存在するであろう微妙なグラデーション多様性(「産みたい気もするけどよう分からん」「なんとなく産む気になれんけど産まないのも残念な気がする」「断固産まん」)にはあまり触れられません。もちろん、なんとなく意味なくごろごろしていたりロックフェスで騒いだり猟奇的な趣味に耽溺していたり、という個々の人間としての女性像はまったく浮かんできません。

ちなみに、丈子の趣味は、東西の実録物語を読むことと、椰子の実を彫って面を作ることです。面は、雑貨店を営む友人・寿美子の店で売られることになります。


さて、その後、寿美子の高校三年生の長女を預かるというエピソードがあり(それにしても、この頃の小説を読んでいると、こうした人間関係の濃厚さなど、いいか悪いかは別にして、今の都会生活とはだいぶ違うなあ…と感じます)、そのよく躾られた長女や(戦争中に育った丈子にはその衣服などが新鮮に見える、というところも面白い)、長女が赤ん坊のように寝かせている熊のぬいぐるみを見ながら、丈子は、夫・戸川が父親になったところを想像するなどします。

「丈子はあの疑いに捕われてからというもの、生理が済むたびに、それが最後の生理であったような淋しさを感じた」

あの疑いとは、自分の身体がそもそも不妊であったのではという疑いであります。この疑いが今芽生えたのは、偶然でなく、(生殖チャンスの)最後の時期がきたことを「自然な何か」が告げたからではないか、と丈子は思います。

こういうことって、今日の出産の高齢化不妊を語る中でもよく言われますよね。生殖年齢が終わりにさしかかって、「本能」が発動し子供が欲しくなって焦り出す女性たちがいる、とか(あるいは、そうやって駆け込みで焦ったときにはもう遅かったりするんだよ、とか)。ここで言われる「自然な何か」も、そうした場合に語られる「本能」に似ています。が、丈子の場合は、だからといって、「子供が産みたくなった」のかといえば、そうでもないのであります。


丈子はしきりに戸川に、子供がほしくないのかを問い詰めるようになります。あるときは、戸川が自分以外の女性たちとハレムを作り子供を産ませる空想を、戸川と語り合いもします。

しかし、丈子は、「子供が欲しくなったのではない」のです。

その一方で――「子供をもつ気も勇気もない中年女」である一方で、丈子は、自分が不妊かどうかを案じてます。そして「産まないにしても」試すならば今のうちであるとは思っています(普通不妊が問題化されるのは「産む」ためであるのに、ここでは産むことより不妊でないことを試すことが目的化されています)。かといって、実際戸川が性交を挑むと、「恐怖にかられ」拒んでしまうのです。

ほな一体あんたどないしたいねん!というところですが、丈子の欲望として明記されていることは、ただひとつなのです。

「子供は絶対に欲しくないと、戸川にはっきり答えてもらいたかった」

「子供なんて要るものか。ふたりで楽しく暮らそうよ」という言葉を聞きたい。




戸川は丈子に、丈子が医師から言われたことをもとに、

「機能的に駄目というんじゃあないんだろう、体力的に無理だというだけだろ」

と丈子に確認したことがあります。このフレーズは作中に二度出てきます。こう確認したからといって、別に戸川も子供を欲しているふうではないので、どちらでも同じことであるはずなのですが、しかし丈子は、自分が「機能的にも駄目」だったらそれでも戸川は夫婦になっていたであろうかと思いめぐらせるのです。

しかし、度々の、子供をめぐる丈子の問いかけに、戸川は冗談めかした答えしか与えません。

ここで丈子は、生殖年齢の終わりにさしかかった自分に対し、実際子供をもつかどうかは別にして、戸川は「この先、二十年、三十年にもわたって少くとも意識の上では子孫を夢みていられる」男である、という、生殖における男女の非対称に思い至り、戸川がずっと年下の夫であるかのように感じるのです。



戸川の同僚の見舞いの後、丈子は、戸川もまた、生殖能力を確かめえたことがないのだ、ということに気づきます。そして、それを「この躰で確かめさせてやりたい」という発想が生まれ、行動に至ります。

「この躰で確かめさせてやりたい」というのは、言い換えれば「妊娠したい」ということのはずでありますが、ここでは、「妊娠したい」という欲望が必ずしも「子供がほしい」という欲望とは結びついていないところが一点、面白かった点でした。

また二点目として、「妊娠したい」という欲望が、自分の欲望としては芽生え得ず夫という他者を経由してしか芽生えていない点が面白いと感じました。

妊娠の欲望とは、実際には現代においても、社会や家族から要請されたり(されなかったり)しながら形成されていくのでしょうが、たてまえとしてはそれは、産む女性本人の固有の欲望として自発的にもたれるものだとされている、と思います。

たとえば、「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの重要なテーゼがあります。世界中であまりに不本意な状況におかれた女性たちが数多あることを考えれば、このテーゼ自体は、けっして色あせることのない、実に実に重要なものであると私は考えます。が、しかし、自分本人にとっての産む産まないの欲望レベルで考えたときに、完全に「私が決める」ことなんて可能であるのか、という疑念も生じるわけであります。私の欲望は他者の欲望云々という言葉を引くまでもなく、自分の欲望って自分の欲望だけじゃないじゃないですか。よってこの、丈子の、行動に至る動機のあいまいさ、もっといえば非主体性は面白いなアと感じたのでありました。

しかし! であります。そこで導入されるのが戸川という他者の欲望という項であるわけですが、この戸川の欲望もそもそもあいまいであるのです。生殖能力を確かめたいというのも、別に戸川が頼んだわけではなく、戸川は結局、子供がほしいともほしくないとも明言しないままであるのです。


さて、ここで丈子はやっと、戸川に内緒で婦人科に行くという行動に出るのです。そこで乗る内診台が、冒頭で述べた、本作のタイトルの由来です。丈子は、子供がほしくて試したのに授からない不妊である、と偽って診察を受けようとします。最後の丈子の述懐にある、

「わたしのような奇妙な願いからこの診察台に上がった女があったかしら」

という「奇妙な願い」は、いわば、

「子供は別にほしくない、とは思う。ずっと一応は避妊してきた。だから機能的に不妊であっても関係ないはずなんだけど、不妊かどうかを確かめたい」という、確かに奇妙な願いであります。いうたら、目的のよくわからん願いですもんね。そうした願いは、通常、生殖をめぐる思いの中で、問題として顕在化しない、顕然とは語られないもののはずであります。



ここまで時々挿入した感想によってお気づきかとは思いますが、私がこの物語を「おもろーーー!」と感じたのは、やはり、昨今の、少子化卵子劣化論が云々される風潮という背景があって、その背景を思って、というところが大きいと思います。

(この作品が書かれたのは40年近くも前なのですが――このことについてはまた別に考えます。)

昨今のそうした議論の中では、上に書きましたように、女の欲望というのは、「産みたい」「産みたいが諸事情で産めない」などとはっきり形をとったものとしてしか語られません。あるいは、そうした葛藤やはっきりした欲望なしになんとなく生殖年齢終了にさしかかったものは(まさに俺である)、何も考えずふわふわ浮かれてるうちに年だけとってしまったバカ、として語られます。

そんな中、そうした論から取りこぼされる微妙なグラデーション多様性の中の、「奇妙な」不定形な欲望の存在を示した本作は、その点で傑作であり、今日においてこそ、文学というものが社会に必要である、ということを示すものであると感じました。ここには、そうした類型でしか語られながちな女性の、主体的な語りがあると同時に、主体的に形成されるものだと信じられている欲望の、非主体性が描かれています。


後半の心情の描写の中に、丈子の夢の描写が挿入されていますが、これもまた興味深いものです。誰かのお産が始まり、それは自分のお産だったのだ(「何だ、わたしのお産だったのか」)と分かるやいなや、死産であった、という夢でありますが、この夢ではお産の主体が自分なのか他人なのかもあいまいになっていますし、また、出産体験のない者が出産を夢見るときの不思議さがよく現れていると思います。出産というのは、ありふれた行為でありながら(これだけ人間があふれてるんやからな)、出産を経験しないものにとっては、永遠に想像するしかない経験であります(まあ出産以外にもそんなことはたくさんあるのだが、鮒寿司食べたことないまま死ぬとか)。私もそういえば若いとき、死産の夢をよく見ました。



「臺に乗る」の話が長くなってしまいましたが、その少し前の作品である「蟻たかる」も同時期に読んで非常に面白かったので、こちらについてもお話したくおもいます。



(つづく)

2013-10-16

河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第1回)

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最近、河野多惠子をずっと読んでおりまして、いくつか既読の作品もあったのだが初めて読む作品もあり、その中でも、「蟻たかる」「臺に乗る」という二作がとりわけ「面白いーー!!」と感じたのですが、何が面白いか説明しようとするとなかなか難しいので、以下、ちょびっとずつその説明を試みたいと思います。

いずれも、『河野多惠子全集』第3巻(新潮社)で読みました。

初出はそれぞれ、

とのことです。


以下、まず、あらすじを紹介します。(いわゆるねたばれ含)



まず、「臺に乗る」。

奇妙なタイトルのこの「臺」とは、産婦人科の、内診台のことです。

「臺」はラストシーンでやっと出てきます。

この物語は、主人公・丈子が内診台に上がろうとするところ、そして丈子の、

「わたしのような奇妙な願いからこの診察台に上がった女があったかしら」

という感慨で終わります。では、奇妙な願いとは何か。ということで、物語全体を見てみましょう。



丈子は30代後半の中年女という設定(ちなみに、私も、丈子より少し年下ですが同年代です)。既婚ですが、以前にも二年間一緒に暮らした男性がいました。だが、産みたい気持ちが「兆しはじめたかもしれない頃」、肺結核を発病します(この肺結核の設定は河野の作品に頻出します、作者本人も肺結核の体験をお持ちです)。そのままその男性とは喧嘩別れをし、のちに今の夫・戸川と婚姻届を出したものの、子供は無し。医者は、ほしいならひとりくらい産めそうだと言ったものの、丈子は、常人並みの健康は取り戻せそうもないし、そもそも、子供に対する執着がないのです。

とはいえ丈子と戸川は特別に避妊を対策するでもなく、丈子の正確な生理周期にのみ頼っています。


近所の電柱が火を噴いて、消防車が呼ばれる騒ぎとなったある日(この火事のモチーフも河野作品に頻出なのです)、丈子はその月の生理を見ます。このときの丈子の心情の描写は、女の人にはわりと「あるある」なのではないでしょうか。

安堵と鬱陶しさが同時に胸を掠め、鬱陶しさだけが拡がった。

うんうん。

しかし、それに続いて、丈子は次のように自問します。

が、水洗の鎖を引っ張り、威勢のよい水音が低くなるのを聞きながら外へ出たときだった。彼女はふと思った――訪れがあってよかったと、わたしに思う資格があるのかしらと。

このとき丈子は、「まだ一度も妊娠したことのない自分をそのとき初めて顧み」るのです。つまり、自分はこれまで生理周期にのみ頼る危うい方法で子供を避けてきたのに、今まで一度も失敗したことがない。世間では望まない失敗をする者もあるのに。もしや自分はそもそも不妊であり、受胎する能力がないのでないか。だとすれば、生理の訪れに安堵することに、一体どんな意味があるのか、と。



ここでまず私は、「おもろーーー!!」と思ったのでした。

何が面白かったのか説明します。

不妊というのは、ひとつの顕然とした事実であるとふつう想定されている、とおもいます。

子無きは去るべき時代・文化では、石女であることは大きなスティグマであったろうと想像しますし、今日でも、不妊治療のトピックや、晩婚化のための(とされる)不妊の話題がしばしば云々されています。それらは、明確にそこにある事実のように扱われています。

が、そもそも、不妊というのは、妊娠しようと試みた(それも継続的に試みた)ときにしか明らかにならないことなのである、ということがこの丈子の述懐の描写の中でぱっと点滅しているところが面白かったのです。産める・産めないの生理的問題が、じつは、産みたい・産みたくないの欲望の問題ありきなのであります。

――ここにぴぴっときたのは、私自身の現状が丈子と似ており、まさにこのようなことを昨今感じていたからだ、ということもあるでしょう。私も丈子と同年代で、生殖可能年齢も半ばを過ぎたようですが、思えば自分が妊娠可能であるのかどうか分からないのであります! 自分の身体が妊娠可能であるということは、(産むか産まないかは別にして、つまり、それが望まない妊娠であっても)妊娠してみせることでしか分からないではないですか。――

そもそもが妊娠できない身体であったのであるとすれば、これまでの、鬱陶しい生理のたびの安堵、および、ひやりとした夜から続く一連の心配の数々、はまったく無意味であったということになりますが、しかし、それ(無意味であったこと、つまり自分が不妊であること)を証明することは(妊娠しようとすることでしか)できないわけです。避妊というのは妊娠を避けることですが、避妊を続ける限り、そもそも避けるべき妊娠が可能なのかどうか分からないわけです。



――とはいえまあそんなことはまあふつうなことといえばふつうなことであって、また、べつに不妊に限らず、世の中に無限にあることであります(「近視は、眼鏡の無い世界にあって初めて障害になる」「数III・Cを履修していないことは、数III・Cが受験科目にある大学を受けるときにしか問題にならない」)。

ではさらに、どこが面白かったのかといえば、先ほど、「産める・産めないの生理的問題が、じつは、産みたい・産みたくないの欲望の問題ありき」だった、と書きましたが、その産みたい・産みたくないの欲望自体が、40歳近くなっても丈子にとっては、なんだか茫漠とした混乱したものである、という点、それとその茫漠っぷりであります。

以前のパートナーとの間で出産の希望が持ち上がったときの描写も、産みたい気持ちが「兆しはじめたかもしれない頃」とあいまいですし(「兆しはじめた」にしかも「かもしれない」付き!)、子供を避けながらも、避妊を生理周期にのみ頼るというやり方も実にあいまいで、保健体育の授業なら、「オギノ式と性交中断法(膣外射精)は避妊法に入りません!」と教えるべきところです。テストに出ます。覚えとこう。



では、話を物語の筋に戻します、

と、続きを書こうとしおもたのですが、目がちかちかしてきたので続きは次回にします。ちゃーお。




2013-06-13

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エレファントカシマシの「デーデ」という曲があって、この間のアカデメイア・カフェで、「お金があれば幸せか」という話をしていたとき、それが頭の中で流れた。


悲しい事あっても 1人きりになっても

金があるじゃないか 金があればいい

もしも君に友達が 1人もいないなら

ふぬけたド頭 フル回転 金が友達


そう、ちょうど(あ)氏の発言と裏表になるわけだけど、「お金があれば、人から嫌われてても友達がいなくても或る程度なんとかなるなあ」とおもって、「幸せになれる派」に挙手のだった。

嫁姑介護問題とか、これまで自分の稼ぎがないばかりに家庭の中で我慢してこざるをえなかった女の人たちのことを考えると、それってけっこう重要なことではないかとおもう。

もちろん自分も、金がなくても幸福感を感じられるのが一番良いあり方であるし、外貨を稼げない(稼がない)人も卑屈になったり惨めな思いをしたりすることのない世の中が一番理想であると思う。

が、「では脱成長でも幸福になるにはどうすればいいか」という議論のとき、どうしても「人のつながりが大事」という話になってしまい、そして今のところその「人のつながり」は、その中で或る成員を卑屈にさせたり惨めな思いをさせたりということから自由でないと思う。

2013-05-25

着床出血

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ちょっと早いが生理かね、と思って処置をしておいたのであったがそれきり出血は止まってしまい、とはいえちょっと出血して止まってしばらくして本格的に出血する、というのもままあるパターンであったので、別にさほど気にしてはいなかったのだが、ふと着床出血という現象があるのを思い出し、急に心配になり出した。



友人が妊娠したときに、最初、生理だと思ったら着床出血だったみたいでねえ、と聞いたことがあった。懐胎したらば例月月経のある頃に、着床を知らせる出血があるのであるという。まあそんな可能性はほぼないんだけど、と思いつつも仕事もちょうど暇だったものだから、目の前のPCで開いていたインターネットブラウザの検索窓に、なんとなく「着床出血」と入れて検索ボタンを押してみると、Q&Aサイトがトップにヒットして、「着床出血ってどんな感じでした?」という質問に何人かの人が答えている。




着床出血っていうのは、受精卵が着床する際に起こる出血で、ごく少量です。生理の開始と間違える人も多いらしいですよ」

「私のときはごく少量でしたよ、生理のときとは違う、薄いピンク色のような血液でした」

「下着に血がちょっとだけつきました。生理にしては予定より早いし、おかしいな~と思ったら妊娠してました」




など。生理にしては予定より早い、少量、薄いピンク。


さっき昼休みにトイレで見た血の色を思い出してみようとするが、薄いピンクだったといえばそんな気もするが、生理の初めはいつもあんな色のような気もするし、そもそも薄暗い照明の中で見た血の色は、もはやはっきり思い出せない。血のついたパンティライナーティッシュにくるんで捨ててしまった。あの出血は今やうっすらした記憶の中にしかなく、そのものとしてはもうない。いつもの経血の色と同じだったような気もするが、違ったような気もしないでもない。



生理にしては予定より早いのはたしかなのだ。

デスクの下で、指を折って考える。


妊娠した可能性があるとすれば、いつだっけあれは、恋人とはしばらく会っていないから、あれは3週間前の週末だ。これを疑惑の日と呼ぶとしよう。

で、排卵日はいつだろうか。

まず、これが着床出血だと仮定して考えてみよう。すると、それは生理が来るはずの日より少し早いらしいから、で、排卵日ってたしか生理の2週間くらい前だった気がするから――昔は基礎体温を測ってたけれど最近忙しいし面倒になってやめちゃったんだよね―― から、そうすると、排卵日は今から2週間以内前であると推定され、疑惑の日と排卵日は1週間以上の開きがあることになり、おそらく精子は1週間以上も生きないであろうから、仮定棄却される。よし。

次に、これが生理の出血だと仮定して考えてもみよう。すると排卵日は、今から約2週間前ということになり、これだと疑惑の日とやや近くなるから、妊娠の可能性が考えられなくもない……ん? あっでも、そもそも生理の出血だと仮定したわけだから仮定に基づけば妊娠の可能性はないわけか。んん!

小学生の頃からずっと計算が苦手だった私の頭はパンクしそうである。同じフロアには数字が得意で頭の切れる同僚がいるが、しかし、こんな計算は頼めない。


それにそもそも――

―― こんなあれこれ考えたってそもそも私は生理周期が一定しないのである。きっかり28日周期という友達もいるけれど、私は20日だったり30日だったりまちまちなのだ。今の計算はあくまで標準的な月経と排卵の周期に基づいたものであって、実際はずれがあるかもしれないし、そうすれば計算も変わってくるし、第一精子だってなんかのミラクルですごく長命なやつがいたかもしれないではないか、人間の身体のことなんて、何が起こるか分からないのだから!

色々計算して考えてみたって、妊娠なんて、してるかしていないか、二つに一つなのだ。



今度は、疑惑の日のことを思い出してみる。避妊は毎回しているはずだ、だが、それだって何が起こるか分からないし、何度かひやっとしたこともあった。もしかしたらあのとき、もしかしたらあのとき、といくつかの場面を思い返してみる。避妊具に破損はなかったであろうか、ちょっと洩れたりしなかったろうか、と思い出そうとしてみるものの、3週間前の、それも夜の記憶なんて既に靄の向こう側であり、いくら遡って再現してみようとしても、不確かな記憶に基づく事後的な再現でしかなく、そう、その瞬間もやはり「そのものとしては、もうない」。

生命が生まれる原因になりうるかもしれないその瞬間が、ここに現前するものとしては「もうない」のである。


嗚呼、こんなことならもっと目を見開いて、精子の行方を一匹残らず確認しておけばよかったぜ。眠かったんだ。

てか、ちょっとした失敗で妊娠とか、そうそうある話なのかね?


生命の誕生が、自分の身体の最重要事項が、自分自身では把握できないなんて! そこで私はまたもインターネットという外部知識媒体に頼ることにする。

職場のPCだしあとで検索履歴消しておかなきゃな……と人目を憚りながら、「避妊 失敗」「避妊したのに 妊娠」などなどのワードで検索をかけると、性や妊娠・出産についての悩みをもつ中高生のためのBBSがヒットした。なかなか息の長いBBSらしく、何十個もスレッドが立っている。

「生理きません(泣) コンドームつけたのに妊娠するってありますかぁ?」という中学生の女の子の質問に、同世代らしき子たちがいくつかレスをつけている。「あるよ~ 気づかないうちに破れたりするからね」というレスの次に、「ありえません、コンドームでの避妊は正しく使えばほぼ100%です、正しく使えてなかったのでは?」というレス。ほぼ同様のレスが交互についているような状態だ。結局どちらか、誰にも分からないのだ。

ネットで調べるといつもこうなんだよね、と思う。以前、飲み会の幹事を任されたとき、店の口コミをネットで調べたが、良い店だという口コミとあそこはダメだという口コミが同じくらい出てきて、しかも双方が全く逆の内容で、結局何を信じたものか分からなかった。

と思いつつ、画面をスクロールしていく。中に、ずいぶん攻撃的なレスもある。

「妊娠オメwww 厨房が軽率にSEXした報いだねww 彼氏には逃げられるだろうねw 中卒でシングルマザーになってくださいww」


見ず知らずであろう人物がなぜ質問者をこんなに攻撃しているのかは分からないけれど――私はふと考える、この子は中学生だから「軽率」と言われているが、20代の私が妊娠しても、やはり同じように言われるのでないか。未婚だし、結婚の予定は無い。恋人はまだ学生なので、もし今結婚したり出産したりするとなると私が稼ぐことになるが、現在の派遣の給与では難しそうだ。非正規雇用だから産休もとれない。しかし、一体いつだったら妊娠は「軽率」ではないんだろう?

暗い気分になってきた。トップページに戻り、スレッド一覧を見る。いろいろなスレッドがあるが、思わずつっこみたくなるものもある。「排卵日って何月何日なんですか?」という質問や、「中で出しても洗ったら大丈夫だよね?」という質問。今の子って、教育を受けてるはずなのに、全然正しい性知識無いじゃん! と思うけれど、一方で、自分の身体のことであるのに何も分からずこんなBBSを彷徨っている私も同じなのだ。



そんな中に、ひときわレスの伸びているスレッドがある。開いてみると、「水子祟りについて」というタイトルであった。

「去年に望まぬ妊娠をして、中絶をしました。お腹の赤ちゃんには今でもゴメンナサイって思っています。最近、家族が二回も事故にあいました。これってやっぱり水子祟りでしょうか?」

というスレッド主に対し、「私も中絶をして水子に祟られている」というレスが続々とついている。

なんてことだ。これがIT革命後の世界なのか? これが21世紀なのか?

溢れ返る情報の中で、ほんとうにこの子たちに必要な情報だけがすっぽりと抜け落ちているんだ。


スレッドは途中から、スレッド主たちを叩くいわゆる「荒らし」によって荒らされていた。

中絶女は人殺し」というハンドルネームをもつその「荒らし」は、「人殺し死ね人殺し死ね人殺し死ね」と同じ文言を繰り返している。その合間を縫うように、少女たちの発言がある。このスレッドの書き込みは、他のスレッド文体とどこか違って、何とはなしに神妙な文体だ。どうも使い慣れないらしいその文体で少女たちは、「私は赤ちゃんを殺しちゃったこの罪を背負って生きていかなくちゃいけないんです」「私は幸せになってはいけないんです、笑顔には戻れないんです」と一様に語る。実際は、色んな事情でそれぞれがそこに到ったのだろう。しっかり避妊したはずが失敗しちゃったとか、何か産めない事情が生じたとか。しかし、皆の語り口は一様に、「騙されて遊ばれた軽率な女」というイメージに忠実で、その文体からは、一様に、「堕胎した女」というスティグマとそれにまつわるクリシェで作られた、青白い泥人形の像しか浮かんでこない。そういえば中学生の頃の道徳の時間、あれは当時の性教育の一貫だったんだろうか、暗い短い小説を、女子だけ読まされた記憶がある。男の先輩に遊ばれて中絶することになった女の子の話だった。読んだ後、「いやだねー」「こわいねー」「この男最低」と友達と感想を言い合った記憶があるけど、その中で妊娠中絶というのは、それによって市民社会から追放されて二度と帰ってこれないような、そんな怖ろしいものとして書かれてた。女の子はクラスでも家でも爪はじきにされて、ひとり落ち込んでいるところで小説は終わったんじゃなかったっけ。

当時の友達は去年妊娠して、

「でも妊娠したの知らずにしばらく薬飲んでたからさ、産むのどーしますか? って医者に訊かれたよー」

と軽く語っていたけれど。



女の子たちの告白と、「荒らし」の罵倒を交互に読み流しながら、私も妊娠してたらやっぱ中絶することになるのかな、と考える。これがあと数年遅かったら、産むかもしれない、けど。

そうしたら私も、青白い真面目な文体で、「幸せになってはいけないんです」と書くのだろうか、それ以外の文体を許されなくなってしまうのだろうか。

ところで妊娠していたら、恋人には何て報告しようか。もうすぐ大事な試験らしいから、今告げたら混乱させるかもしれない。でも告げるなら早いほうがいいよなあ。ああ身体は、試験のスケジュールなんて関係ないんだよなあ。こんなときに私の身体がややこしいことになって恋人に申し訳ない。いや、なんで申し訳ながらなきゃいけないのか。そうだとしたら、半分はあんたの精子じゃん。いや、しかし私がもっとちゃんと気をつけているべきだったのか。私一人で婦人科に行くべきか、彼には隠しておこうか。考えるうちに、更に暗い気分になってくる。ていうかそもそも、私、孕んでいるのであろうか?


で、思考は元の血の色に戻る。ピンクの瞬間に思考は固着し、何度もそこに戻っていくけれど、でもそれはごく弱い網膜の記憶にあるだけで、「そのものとしてはもうない」のだ。何度も思い返すうちに、ピンクは薄くなったり濃くなったりしてる。

そうこうしているうちに、体調がおかしくなってきた。動悸がするし、気分が悪い。これはやはり、ちょっと普通ではないのでないか。もしや妊娠初期の症状ではないだろうか?いや、悪阻ってもう少し後のはずだっけ……

とりあえずトイレに立つと、すれ違った同僚が、「あれ?顔色悪くない?」と言う。手洗いの鏡の前を通りすぎるとたしかに、本格的に血の気の無い顔をしている。これはおかしい。


とかく個室に入って下着を下ろすと、出血していた。


この出血量は、経血である、間違いない。

月経開始は憂鬱なものだが、雲が晴れていくような、小躍りしたいような気持ちであった。

そうか、動悸がしたり気分が悪かったり顔色が白かったりしたのは、月経に伴う症状であったのか。

あれ、そもそも、何で妊娠してるかもなんてぐるぐる考え出したんだろう。冷静に考えたら、そんな可能性はほとんど無いんだよね。ネット見てるうちになんか変になっちゃった。ああそっか、こうやって、不合理なことをぐるぐる考えてしまうのって、私、生理の前にやってしまいがちなんだよね、これもPMS一種なんじゃないかな? PMSって「ああ、今のはPMSだったんだ」っていうふうに、いつも事後的にしか、それと分からないんだよねえ。


個室から出て手を洗うと、鏡に映る顔にやや赤みが戻っている。顔色が悪かったのは、BBSの変な書き込みを見て、心配したり暗い気持ちになったりしたせいもあったのかもしれない。


そろそろ仕事に取りかかろうとデスクに戻る。席を外していた間にウイルスソフトが不穏な音を立て、スキャンを始めており、PCの動作が重い。

2013-04-21

地理の縮尺の問題の思い出

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中学時代の怨念シリーズである。


中学のとき、わりと皆に慕われてる社会の先生がいた。

テスト用紙に、ひとりひとりに赤ペンで長いコメントを書いて返したりなど、熱血系の先生やった。

その先生の地理の授業である日、地図の縮尺?かなんかを答えさせる問題があり、指名された。

どんな質問だったかくわしくは覚えてないが、これは何分の一の縮尺か? ということを、簡単な計算をさせて答えさせる問題だったかな。

それで「1000」とかなんか答えたのだが、先生は、「ん? 1000? 10000とちゃうか?」とかなんか、ひとつ違う桁をいうてきたのやった。


で、もう一度計算したが、明らかに自分の答えで正しかった。

ので、もう一度、「1000」と答えたのだが、先生はしつこく、「10000とちゃうか?」と問うた。

「1000」ともう一度言った。

だがさらに教師は、「1000? お前、ほんまかぁ? みんな、10000やんなぁ?」と言いながらこちらの顔を覗き込むのであった。


私は分かっていた。

正しい答えは1000である。だがこの教師は、誤答に誘導して「10000」と答えさせ、

「はい、正しい答えは1000でした。お前ぇ、人の言うことに惑わされたらあかんやんか。みんな、もっと自分の答えを信じるんやぞ!」

という流れにもっていきたいのだ、と。


「どや? お前、10000とちゃうかなぁ?」

教師は重ねて訊いた。

ついに私は折れて、「10000」と答えたのだった。

果たして教師は、

「はい、正しい答えは1000でした。お前ぇ、人の言うことに惑わされたらあかんやんか。みんな、もっと自分の答えを信じるんやぞ!」

というようなことを言うた。



私は、正答が「10000」であるという他人の意見に流されたのではない。この先生の思う流れで授業を進めることに協力してあげねばならんっぽい……、という圧力に流されたのである。

だがそのこと(私が、いわば協力してあげたということ、協力してあげなあかん圧力を察知しておりそれに流されたということ)に教師は気づいていなかった(単に私が、正答が「10000」であるという他人の意見に流されたと思っていた)であろうし、そればかりかさらに、私自身でさえも、自分が、正答が「10000」であるという他人の意見に流されたかのように錯覚し、それからしばらく自分の意志の弱さを恥じていたのだった。


怒りが沸いてきたのは、ずいぶん後のことだった。

うちは、あの人の思うように授業を進めるために単に利用されたんや!ということが解ったのだった。

(これを言語化できたのは、このときからかなり経って、大学生になったくらいの頃だった。)

この教師が私を指名したのは、第一に、私を馬鹿だと思っていたからであろう。中学時代、私はあまり勉強ができなかったが、人並みに物は考えていたと思う。だが、学業成績およびその他諸々の要素(たぶん雰囲気とか外見とか)から、教師からも周囲の生徒からも、何も考えていないぼんやりさん扱いされることが多かった。この男は、私のテストのコメントに、「お前はもっと自分の意見をもたなあかん!」ということを赤ペンで書いて返したりもしていたので、私が自分の頭で何ひとつ考えていないと思っており、それを私に分からせるためにも、私を指名したのであろう。つまり教育的指導のつもりだったのであろう。


今、私は、正規の職ではないながらひとに教える機会をいくらかもっておるが、こういう授業の進め方だけはするまい、と未だに思っている、が、ときどき、無意識的に気づかぬうちにこういう生徒の利用の仕方をしているのではないかとおもい、不安になる。

2013-04-06

人生(来世含む)でやりたい100のリスト

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「人生でやりたい100のリスト」というのが流行っているようなので(http://matome.naver.jp/odai/2133328100304758601)、わたしもしたいことリストをつくってみることにした。

したいことが増え次第追加します。


  • 長崎バイオパークに行きカピバラをさわりたい
  • カピバラに生まれたい
  • カピバラを生みたい
  • カピバラ温泉でカピバラと混浴したい
  • マナティに生まれ変わりたい
  • マナティジュゴンの間に横たわりたい
  • ツチブタを飼いたい
  • ツチブタと同じ布団で寝たい
  • ツチブタの鼻で二の腕あたりをふごふごされたい
  • シャーペイさんのしわとしわの間にはさまりたい
  • カンガルーの袋に入りたい
  • 有袋類になりまめ子を自分の袋に入れたい
  • まめ子と鴨川の北のほうにいきたい
  • まめ子と疎水にいきたい(春)
  • 一度くらいならまめ子と人間語でしゃべってみたい
  • カンブリア紀に行きたい
  • カンブリア紀で、アノマロカリス、ハルキゲニアなどの色を確かめたい
  • カンブリア紀からオットイアをもって帰りたい
  • パンダ生みたい
  • ブタの乳を数えたい
  • おたまじゃくしを溜めた風呂に入りたい
  • まめ子と温泉につかりたい、まめ子に風呂のよさを分かって欲しい
  • ハリモグラのあかちゃんの腹をなめたい
  • でかいねこ(ヒョウ、トラ)に襲われることなく彼らが寝ている間にその腹をほにょほにょしたい

以下、随時追加



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