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名菓アカデ◎ミズモのかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



もともとは「京都アカデメイア」スタッフのグループブログの一つということで始めたブログですが、現在は個人的な雑記として用いています。心にうつりゆくよしなしごと等を記録することとします。

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2017-03-13

分からないことと分からない気持ちが分かることと分からないことが分からない気持ちも分かることとやっぱりいろいろ分からないこと

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大学に入ったばかりの頃、塾講師のバイトを始めたという友人が、「こんな簡単な問題も分からないような生徒ばかりで信じられへん、教えても無駄な気がする」とぼやいていて、彼はこれまで勉強が分からなかったことがないというので、この人はずっと「分からない・できない側」の気持ちになったことがないんや!と衝撃を受けた。

私もその頃教えるバイトをしていたのだが、自分が全然勉強ができない時期があったため(あと、体育は生まれてこのかた時期を問わず一切できたことがないため)、分からない・できない子の気持ちが自分は分かるぞ、それは自分の強みかもしれないな、と思った。


勉強が壊滅的にできなかった時期は、なぜ・何が分からないのかと言われても、まず、なぜ・何が分からないのか分からないし、もはや断片的にしか意味がとれない言葉が話される45分間の授業の間、ただ漫然と座っていて(あまりに暇なので「どれだけ長く息を止められるかゲーム」をよく一人でやっていた)、ときどき当てられて絶対答えられるはずのない問いを問われる苦痛は、できない側であったことがなかった人にはなかなか分からないと思う。

理科の時間に指名されて、「~は何個や?」となんかの個数を訊かれ、それの答えは「6個」かなんかそんな感じだったらしいのだが、なんかの個数を訊かれているという以外のすべてのことが分からなかったので、とりあえず教科書を開き、開いたところに「26000」みたいな数字があったので「26000個」と答え、先生にめっちゃ怒られたのを覚えている。


あの先生からすれば、なんでそんなことになってしまうのかさっぱり分からなかっただろうし、ふざけているように見えたかもしれない。

その他、英語のbe動詞が意味分からんかったし(「this is a pen」の「is」は「これはペンです」の「は」なのか「です」なのか分からなかったため英語は詰んだ)、また、体育の逆上がりは毎日居残りしたが結局できなかったし、いずれも、できる人にしてみれば、なぜそんな簡単なことが分からない・できないのか、理解できないだろうと思う。


その、分からない人のことを分からない、できる人の気持ちも分かるところがあって、というのは、小学生低学年のときは国語だけはできたからだ。国語のテストでどうして40点とかをとる人がいるのかまったく分からなかった。国語って文章を読むだけなのに、どこに分からない要素があるのか分からず、のび太が算数や社会はともかくとして国語でも20点とかをとってるのを見て、「どうやって20点とかとれるんや」と思っていた。



この国語における分からないことの分からなさが解消されたのは、7、8歳頃、親戚から借りた『ああ無情(レ・ミゼラブル)』を読んだ(正確には読んだとはいえない)ときである。敬愛する従姉のおねえちゃんがおり、そのおねえちゃんの愛読書であるというので、「ちょっと難しいかもしれへんで」と言われつつ、読む気まんまんで借りたのであるが、文字を追ってもさっぱりどういう話なのか分からなかった。

「知らない漢字がある」という以外の理由で文章が理解できなかったのはそれが初めてのことで、「よく漫画とかで見る『難しい本が分からない』というのはこういうことかーー!!これが、『分からない』かーー!」と思った。本の内容は分からなかったが、分からないとはどういうことかが分かったのだった。


だがそのような、分からない側であった体験とか、分からないことが分からない側であった体験とか、分からないということが分かった体験とかがあるにもかかわらず、そしてそれが自分の強みだと自負していたにも関わらず、しかしやっぱり実感的に分かっているのは自分の体験した範囲内での分かったり分からなかったりだけであって、今でも実際に、自分がやすやすとできていることができない人に会うと「分からないらしいことは分かるが、なぜ分からないのか分からない!」と困るし、自分ができないことをやすやすとできている人に会うと、「できない者の気持ちを分からないやつめ、ふざけんな!」と腹を立ててしまう。





被害を訴えられるとき

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被害を訴えられ、かつ、その被害の内容が事実か分からない場合の対応の仕方に、いつも失敗し続けているように思う。



まず、人から何らかの被害を訴えられたり相談されたりするとき、聞かされた人は「これはウソかもしれない」とか「大袈裟に言ってるのかもしれない」とか「この人が悪いんじゃないか」とか思ってしまう傾向があることは、常に肝に銘じておいたほうがよいと思っている。

(どうでもいいけど「肝に銘じる」という慣用表現がなんか嫌いであるのだが他に適当な言葉がないので使ってしまった。ほんまにどうでもいいな)

これはおそらく防衛反応であって、誰かがひどい目に遭っているということを聞くとき、自分が同じ目に遭う可能性があると考えたくなかったり、或いは、同じ目に遭っていない自分が責められているように感じたりして、そうした気持ちゆえに、そのひどい目に遭っている人の訴えを聴くのにバイアスがかかってしまうものだと思う。何らかの事件報道のたびに、「被害者にも落ち度があったのでないか」的な論や自己責任論が出てくることはその証左だと思う。みんな、被害者にも落ち度があったと思うことで、落ち度のない自分はそんな目には合わないはずだと安心したい・万能感を保ちたいのだと思う。

(今聖書読書会ヨブ記を読んでるんだけど、ヨブにふりかかる理不尽な災いの数々を、ヨブの友達たちが「お前がなんか悪いことしたんちゃうか」みたいに責め続けており、ああ、これよくあるやつや……と思う。というかそいつらは友達なのか、という話である。)



そのような人間心理バイアスを考慮に入れると、何らかの被害を訴えられたときは、極力それはすべて真実だと思って聴くくらいでちょうどいいとは思うのだが、その内容が、およそありそうもない場合、たとえば認知症精神病性の妄想などによると思われる(がちょっとくらいは事実である可能性がなくもない)内容であった場合、いつも態度を誤ってしまう。


まず、あるべき態度としては、世の中にはまさか本当にそんなことがあるとは思えないことがけっこう起こっていることを思えば、一概に妄想であると断定することは危険であるかもしれず、一応は事実である可能性も念頭においておかねばならない、ということがひとつ。(実際これまで、妄想であったと思われていた被害の訴えが実は事実であったり、あるいは故意に妄想ということにされて握りつぶされた訴えがあったりしてきた。)

また、たとえ妄想であったとしても、その人がその妄想の結果苦しんでいるということは本当であるから、訴えの内容を認めるかどうかは別にしてその苦しみは認めなくてはならない、ということがひとつ。

かつ、それが妄想であったとしたら、「そんなの妄想だよ」と修正しようとしても多くの場合修正されることはないので、それは医療に任せるべきであるとして、正しい態度としては、「事実であるという可能性を念頭に置きつつ・妄想であったとしても修正できないので内容への判断は保留にして・その人の苦しみだけは認めそれを聴く」ことである、とは分かっているのだが、いつもこれに失敗する。

たとえば「AさんがBさんに被害を受けた」と訴えているがAさんもBさんもともに自分の友人であり、Aさんに寄り添うことがBさんを疑うことになりBさんに悪いと感じられてしまう、ような場合である。

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