Hatena::Groupacephale

名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



もともとは「京都アカデメイア」スタッフのグループブログの一つということで始めたブログですが、現在は個人的な雑記として用いています。心にうつりゆくよしなしごと等を記録することとします。

■写真主体のブログはこちら:
京都ぬるぬるブログ
http://yaplog.jp/maternise/

(パイロン、貼り紙、絵馬、動物、犬など)

■LINEスタンプ各種発売中です:https://store.line.me/stickershop/author/52173/ja

■京アカでの書き物:
「精神分析とジェンダー」ブックガイド
書評『バンギャル ア ゴーゴー』
書評『摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学』
書評『勝手にふるえてろ』



カテゴリー




 | 

2012-06-27

冷静みたいなものと情熱みたいなもののあいだ(我に返るスキマを見つめよ)

| はてなブックマーク -  冷静みたいなものと情熱みたいなもののあいだ(我に返るスキマを見つめよ) - 名菓アカデミズモとかわいそうな牛

以前についったでも書いたんですが、ロック・コンサートにおける(観客の)身体技法ておもろいなあということをよくおもう。


それは、熱狂と昂奮に突き動かされての自然なうごきであるかのように見えて、だが、ヨコに揺れるとかタテに揺れるとか或るタイミングで拳を突き上げるとか一定のパタンがあるのであって、われわれは或る程度学習しなければそのような一様なうごきはしないであろうわけで、また、一定の条件下に置かれなければそのようなうごきはしないであろうわけで、よってそのうごきは音楽による熱狂と昂奮のみに支配されているのでなくて、学習、およびそこがライブハウスという囲われた場であり周囲に同じうごきを共有しているひとびとがいるという条件によって支配されている、はずである。


また、昂奮と熱狂の中にも、「やべ、隣の人の足踏んだ、もうちょい人の少ない方へずれよう」とか「あ、今のタイミングで手挙げたんおれだけやった」とか「しまった、跳んだらナプキンずれた(注:生理中)」とかそういう冷静な意識や計算のうえでのうごきがあるわけであって、とはいえしかし、それが計算または学習されたものであるからといって、その衝動や昂奮が「本物ではない」というわけでなく、そしてそういう、衝動や昂奮と計算や学習のあいだのぶぶんがおもしろいなあ、と思っており、それはべつにロックのライブだけではなくて、たとえば、ジェットコースターに乗る女の子の「キャー」という声であるとか、性行為の過程やそれに伴う発声発語であるとかも、あれらは自然に生じているもののように見えてだがおそらくわれわれは学習しなければああいうふうに発声したりうごいたりはできないであろうわけであって、たとえば、女の子というものはウオーとがギエーでなくキャーと叫ぶものであるというジェンダー規範がなければおそらくわれわれはジェットコースターで叫ぶにしても違う叫び方をしていたのではないかと思うし、咄嗟に行われているはずの発声が文化や言語圏によって異なることがその証拠であろうし。

…と以上のようなことはべつにあたりまえといえばあたりまえのことであって、こんなにぐだぐだ書くまでもないことであり、また大いなる昂奮と熱狂と衝動のまえではどうでもええことやともいえるけれど、この「あいだ」のぶぶんがどーしても気になってしまうというのんは、じぶんが文章を書くなどする際にこの「あいだ」の扱いをどうするかということがけっこう重要になってくるからかなあ、とおもっていて、たとえば、喜びや悲しみや怒りにかられて文章を書くときも、一方で冷静な推敲があるわけであり、そしてそのことはPC/ネットで文章を書くようになってからより前景化してきたことであって、感情にまかせて書くとき、それは魂の叫びのようでありながら、だがその過程には、冷静にhtmlタグ打ってたりへんな漢字変換候補にくすっと笑って誤字直したりという散文的、もじどおりさんぶんてきなうごきがあり、そのうごきのたびに一旦感情が脱臼?脱臼ていうのかな?脱臼するような感覚があって、そのうごきはTOMOVSKYが「我に返るスキマを埋めろ」と歌うところの「我に返るスキマ」なんだけれど、だがこのスキマがなければおそらく文章を作るということ書くということは成り立たないわけである。

そして以前から思っていたのは、何かもうどえらい事態、たとえばものすごい不幸とか人が死んだとかそういう事態を前にして文章を書くとき、文章を書くという行為自体が何かふまじめな、不謹慎なことに感じられる、ということがしばしばあり、この感覚は多くのひとびとにむイしきに共有されているんでないかなと思っていて、たとえばこれまで何度か、人の死に際して書かれた追悼文や災害被害について書かれた文に対し、「よくこんなときにこんなふうに書けるよね」的な非難をネットで見かけたことがあるのだが、それらの文章はとりわけ何か不謹慎なことが書いてあるわけではなく、ただ、ちょっとしたレトリックが使われた部分やちょっとした冷静さによる部分がそのように非難されていて、だから、大変な事態を前にしたとき人は文章を書けないほどあるいは文章を文章として成り立たせることができないほど取り乱すはずだということが前提とされていて、よってその中に見られる「我に返るスキマ」自体が何か不謹慎でナルシシスティックなものに見えてしまうのでないか、とおもった。


べつにこの話に結論はなくて(いつものことであるが)、単に、その「あいだ」のぶぶんっておもろいなア、というだけのおもろいよね話なのであるが、ロックのライブの話に戻すと、ライブ後学級会現象と呼ばれている現象があり、それは、ライブの後にそのバンドのBBSやらmixiコミュニティやらで「モッシュやダイブのせいで怪我をしました」みたいな書き込みを発端に、ライブ中のマナーについて、モッシュ・ダイブの是非をめぐる学級会的大論争が起こる、という現象のことであり、学級会とかいうとなんかばかにしてるみたいだがそんな意図はなく、人が密集するわけだからそういう論争は起きて当然であるし話し合うことができるのはいいことだとおもうのでいいのだが、出てくる意見はほぼ決まっていて、「下手な奴はダイブするな」とダイバーの技術を問うもの、「ダイブが怖いなら後ろで観ろ」という自己責任(?)論、「皆音楽を聴きに来ているのであって暴れにくるのではない・体の小さい女性などもいるのだから、危険な行為は控えるのがマナー」という良識(?)派、などが主な立場で、だいたいの人はそれらの複合的な視点から発言をする。で、最後の意見に対しては必ずといってよいほど、反論が出る。それは、「僕らはいい音楽を聴いて昂奮したら暴れたくなるしダイブしたくなるんだ!それが本能だから仕方ないんだ!ロックとはそういうものだ!」というやつ。そしてそのたびにわたしは、こういう奴の言うロックは信じない! とおもうのだった。

暴れること自体は全然いい。周囲に迷惑をかけても大怪我を負わせてもそいつがそれこそが自分のロックだと信じるのであれば仕方なかろう。あとは法的な問題になるだけである。だがそこで、「本能」というレトリックに頼ってほしくない。

こやつが、ライブハウスでなくホールでのコンサートでも熱狂すればダイブするんなら、或いは河原町を歩いてて耳にした音楽に昂奮して道路にダイブするんなら、そりゃ本物だろうが、そうではなかろう。よってそれは本能などではない。第一われわれの本能に「ライブでダイブする」うごきなど明らかにプログラミングされてない。暴れること自体はかまわんが、だがそこにある「あいだ」を直視せずして「ロック」とか言うなよっ、だいたい本能で済むんならそもそも人間に音楽など要らんのぢゃ。とおもうのであった。

以前、なんかのライブで、威勢よくダイブした男の子がその瞬間お尻のポッケからお金とケータイを落とし、「あああ~ しまったー」という顔でそのまま頭上を通りすぎていったことがあった。わたしはこのような瞬間をこそ愛す。



上の話とアウトサイダーアート

| はてなブックマーク -  上の話とアウトサイダーアート - 名菓アカデミズモとかわいそうな牛

上の話はべつにおちはなくて要は「わたしはスキマが好き」というだけの話なのだが、「アウトサイダーアート」というものに対して、わたしは(そしておそらく多くの人は)、こういうスキマがないもの、として在ることを期待しているふしがある、ようにおもう。ラカンアウトサイダーアートを、ふつうの遠近法絵画(=眼差しを武装解除する)に対して、眼差しに直接訴えかけるみたいなことを言うてたように思うけど(原著未確認&うろ覚えなのでちょっと違うかも)、それってそういうことなのかなとおもう。

たしかにそんな感じはするのだがその一方で、この期待は、すでにいくらかバイアスのかかった期待であるとも分かっているのだが。まあそもそも「アウトサイダーアート」というくくり自体から問わんといみのない話かもしれないが。



|

倉橋由美子が、大江健三郎の『厳粛な綱渡り』について書いた文章がおもしろい。

「生活」という軸で読むなら、そこに森茉莉もくわえて比較するとさらにおもしろい。

(そのうちひまがあったら書く)

 | 





最近のコメント