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名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



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2011-06-22

母というものについて

| はてなブックマーク -  母というものについて - 名菓アカデミズモとかわいそうな牛

先日斎藤環の『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス)をよんだ。タイトルからして、もっと心理トンデモ本みたいのかとおもってたけど、思ったよりいい本だった。少なくともわたしには共感できるとこが多かった。やっぱ精神分析の扱いって難しいよね、ともおもったけど。あと、著者近影がいつもより優しげでいい感じだった。

で、これを読んだからというわけでもないのだが、母というものについて最近考えたことをメモ。



1. 楳図かずおはすごいとおもったこと


楳図かずおの『洗礼』は母と娘をテーマとした名作なのだが、この作品のなかでわたしがもっとも、「ウメズ!!すごい!」とおもった場面は最初の、さくらちゃんがお母さんに抱きつくところである。

もうちょっと詳しく説明する。

『洗礼』、どういうストーリーかというと、往年の大女優が老いて美しさを失い始める。彼女はひどくショックを受け、ある決心をする。「女の子を産んで、美しい娘に育ったら、その娘の体に自分の脳を移植して、自分が娘として生きる、そして今度は幸せな女の人生を送る」というトンデモ決心だ。そして実際彼女は娘を産む。娘・さくらは目論み通り美少女に育ち、ついに彼女は脳移植を決行しようとする。だが、その秘密の計画を不意にさくらが知ってしまうのである。で、医者に脳移植を依頼する母親の声を聞いてしまったさくらの様子、その描写が秀逸なのである。

彼女は、母の姿を見て恐怖に固まるが、その一瞬後、すぐに「お母さん!」と抱きつこうと母に駆け寄っていく。そのコマをみたとき、「なんでこんなリアルな描写ができるんだ!」と驚いたのだった。

子供の頃、うちの母親はやたら子供を怖がらせるのが好きな人で、いろいろと必殺技をもっていた。その技のひとつに「ずばずばまん」という技があった。「ずばずばずばずば!」と叫びながらチョキの形にした二本の指を交互に動かしてこちらに向かってくる、というだけの今思えば意味不明な技なのだが(おかんアホや)、当時はちょーこわかった。

しかし、ちょーこわいのに、わたしは「ずばずばまん」が始まると同時に、泣きわめきながら母のもとに駆け寄り抱きついたものであった。そうすると、距離が詰まって余計にずばずばされさらに泣き喚くことになるというのに、自分でも「なんでー?」と思いながら。そのときのことを思い出したのだった。メラニー・クライン的な、悪い母親(二本の指先)と良い母親(本体?)の分裂。あるいは、お母さんはずばずばなのにわたしにはこのお母さんしかいない!という絶望……。

「子供の心を失わない」なんて形容は安っぽいけれど、楳図かずおは、ほんとうの意味で子供の心を失わないほんとうに稀有な人だと思う。



しかし、『洗礼』の「母と娘」というテーマは、わたしは実はあんまりぴんと来ない。ぴんと来るとしたら、自分が母になって娘を産んだときではないかのうとおもう。



2. 「母の言葉」


上記たまっきー本に「母の言葉」という概念が出てきた。母に言われた忘れられない一言、意識的意識的に影響を与えられた一言、みたいなものを指すようだ。

わたしはわりと母と仲がよいほうなのだが、それだけにやはり、母の影響というのはでかく、わたしにも「母の言葉」はある。

わたしの「母の言葉」は、「色気づきおって」であろう。

思春期前後、ちょっと身なりを気にしたときなどに、この言葉はしばしば発された。たとえば覚えてるのは、脚の毛を抜いてたときや。わたしは当初、なんとなくこっそりと脚の産毛を抜いてたのだが、あるとき母に、つるんつるんした脚を発見されたのだった。そのとき母が、「あんた毛抜いてんの? 色気づきおってー!」とからかったのやった。

そう、これは単なるからかいの言葉だったのだが、わたしにはそれが非常な非難にきこえ、非常に恥じ、罪悪感を感じたのだった。


そもそもわたしは、なんでかしらんけど、着るものや自分の容姿にこだわるのは道徳的にあかんこと、みたいなアレが子供の頃からあった。べつに明確にそういう教育を受けたわけではないのだが、『赤いくつ』という童話を読まされたのを覚えている(赤い靴を気に入った女の子がかわいそうなことになる話)。

妹(下)は幼少期からこんな服が着たいとかあんな服を買ってほしいとかいろいろこだわっていたのだが、わたしは「タンスの一番上に入ってる服を着る」と言い張っていて、母に「あんたはほんまに色気がないなあ」と笑われていた。ほんまはわたしも、こんな服がほしいとか無いでは無かったが、そういうことを言うたらあかんキャラなのやった。


そしてそう、母というものは、「色気づきおって」とからかう一方で、「色気がない」と非難してくるんである。

由々しきダブルバインドだが、しかしこれはあまり気にしなくていいダブルバインドだったのだ! ということがかなり後になって分かった。妹(下)もわたしと同じく「色気づきおって」を言われていたが、彼女はそういわれてもいっこうに気にせずに、流行の服を着、お化粧をし、眉毛を抜いたりなんやかんやしていた。そして今は、(少なくとも姉よりは)まっとうな女性に育った。

そうか!あの「色気づきおって」は気にしなくてよいものだったのだ、親のそういう言葉は、みんな言われる儀礼のようなものなのでスルーすればよいものだったのか! とわたしが妹を見て気づいたのは、はたちも過ぎた頃やった。


ところでしかし。わたしはずっと、じぶんが着るものや容姿における色気づき欲というかカワイイ欲、女性性欲みたいなんを抑制してきたのは、母の教育方針であるとおもっていたのだが、それはどうも違うらしいということが、その後母が、「ほんとは私は子供にカワイイ格好させるんが好きなんやけど、(父方の者たちが)いろいろ言うから好きなようにできんかった。妹は最後の子やからもう好きなようにした」というようなことを述懐したことにより、明らかになった。そーいえば『赤いくつ』の絵本も、べつに母から与えられたものではない。「母の言葉」の母は、単なる母だけの母ではなかったよーである。

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