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名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



もともとは「京都アカデメイア」スタッフのグループブログの一つということで始めたブログですが、現在は個人的な雑記として用いています。心にうつりゆくよしなしごと等を記録することとします。

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書評『摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学』
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2010-12-13

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クリスマスが近づいてきたので、ブログのデザインを、「クリスマス」から車にかえました。

車なんて興味ないのだが。


文芸時評って何

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先日倉橋由美子のことを書いてから、ふと思い立って、倉橋作品に対する文芸時評を調べてみた。

で、デビュー作「パルタイ」はずいぶんな事件だったのだなあ、とか、そうかあ、当時は「どこにもない場所」について、誰も「摂食障害」というワードで説明してなかったんだなあ、などと色々と発見を得た。それもそのはずで、この作品が書かれた61年は、拒食症過食症という語もほとんど普及してなかったはず。カレン・カーペンターの死が、ずっと後の83年だ。


***


さて近現代の文学作品についてなんか言うときは、とりあえず、文芸時評を見てみて同時代の批評を確認する、ということにしています。近現代文学についてなんか言う多くの人はそうしてるのではないかな。

さいきん、『文藝時評体系』という、明治~昭和の文芸誌の文芸時評を索引付きでまとめた本が出て、この作業がやりやすくなり、非常に有難いのです。

(以前自分のブログでも紹介しました。吉田健一のびっくり文について:http://yaplog.jp/maternise/archive/254



そして、倉橋由美子についてに限らず、文芸時評をまとめて読んだときに驚くのは、(以前にも書きましたが、)「女流作家」の女流ってだけでひとつにくくられるくくられっぷり、文芸時評のあまりの「男の世界」っぷりです。誉めるにしてもけなすにしても「女性特有の感性」とか「女の情念」とか。(90年代のロック雑誌もそんな感じでした。今は読んでないのでどーだか知らない。)

さらに「女流論」を語るとき、時評子たちの筆はなんだか冴えなかったり気持ち悪かったりします。

目につくのは二、三の女流作家のはだ合いといったものに何か共通したものが感じられ、そこからトピックがつかめそうな気がした。女のはだといっては失礼だが、それが男よりあらわに出るのがエチケットである点、夜会服と小説、ことに純文学小説とは一般である。(昭和38、河上徹太郎

女流文学がにぎわうということは、現実社会が頭打ちの閉塞された繁栄のうちにあり、人々が横に流れ出したセンチメントの世界に住む外なくなったという状態のあらわれだということができまいか?(同上)

とこんな感じで、女が小説を書くだけで大騒ぎです。39年に『文学界』は女流文学特集を組んだそうですが、それに対して時評子・野口武彦は、

ここに集められた作品群は、わたしにもしかしたら女流文学とはちがうものなのかもしれないという感覚を抱かせる

と述べ、発表されている作品を「結局女性の生理的感覚がとらえるもの以上の拡がりを持たない」と批判するのですが、最後に

これは果して女流文学だけの問題であろうか

とひっくり返し、それなら最初から「女流」て言わんでええやん!とつっこませます。

平野謙が文芸時評をやめるときの言葉も、「自分の子くらいの年齢の女流作家のたわごとにつきあうのがいやになった」とかなんかそんなフレーズでした。なんでそこでわざわざ「女流」と言うのか?という。

文藝時評界に女性が現れるのは、80年代の河野多恵子朝日新聞)くらいからなのでしょうか。

ちょっと前の文学文学批評界は、今では想像できないほど男の世界であったのかなあ、と感じます。(まあ今も、綿矢&金原受賞事件のときは若い女性ってだけでしょうもないことを騒がれたりと、そんな変わってないんかもしれんけど。)



……と、しかしそんなことはまあ、(いろいろとジェンダーに関する便利な言葉や概念を得た)今だから入れられるつっこみであって、また、きっと、たくさんの女性文学者フェミニストが似たようなつっこみを入れているのでありましょう。

それにしても、いつも不思議に思うのは、「で、文芸時評とは何?」ということだ。文芸時評に限らず広く「文学批評とは何?」といってもいいのだが、文学批評って何なのか。

文学批評とは文学を批評するものだけれども、ある作品の評価が、批評する人によって違う。先の『大系』をちらちらとめくっておっても、ある作品について、ある時評子は傑作だと評し別の時評子は駄作だと批判する、というようなことがざらにあります。もちろんそれは自然なことで、ある文学作品の良し悪しが誰にとっても同一である、などということはありえないことでありましょう。また、批評は、上の「女流」に対する物言いのように、その時代ごとの通念にも規定されるはず。

とすると、文学批評は、主観や偏見に拠る以外にありえないのかな。

だとすれば、ある作品の良し悪しを言う批評の役割って何。めいめいが「おれはいいと思う」「おれは悪いと思う」と言ってるだけなら、別にそんなんそのへんの素人でもできるやん。

てかそもそも、文学作品の良し悪しってどういうこと? 個人的な何かに基づく個人的な好み・判断以外に或る程度公共性をもつ文学的な良し悪しというものがある(とされてる)ようだけど、それって何だ...

とかいうことを(まあ実にベタな疑問なのですが)よく思っていたところ、『文芸時評 ―現状と本当は恐いその歴史』(吉岡栄一著)という本がまさに真正面からその問いを問うていたので読んでみました。これについて今日は書こうとおもったのですが、夜遅くなったので今度にします。



文芸時評 現状と本当は恐いその歴史

文芸時評 現状と本当は恐いその歴史



この「本当は恐い」という副題は、「本当は恐いグリム童話」とかの流行に乗って無理やり付けられたのではなかろうかと勝手に想像します。内容と合ってない気がして、ちょっと気の毒です。




昔のフォークソング

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これはとてもすき。



これもいい曲。コメント欄の論争(?)には苦く笑う。


お国は俺たち 死んだとて

ずっと後まで残りますよね

失礼しましたで終わるだけ

命のスペアはありませんよ

青くなって尻込みなさい

逃げなさい隠れなさい


命を捨てて 男になれと

言われた時には震えましょうよね

そうよ 私しゃ 女で結構

女の腐ったので構いませんよ

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