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名菓アカデミズモとかわいそうな牛 このページをアンテナに追加

アカデミズモは、アカデミズムの裏庭。そこには亀たちが棲んでゐます。



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2010-11-04

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先日の人環フォーラムの会は、盛り上がってよかった。ももじろうのにせ肉はけっこう好きだ。

アートクリティーク買った。読む。




ヤプーvs倉橋由美子 (または婚活前編)

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天野哲夫「『家畜人ヤプー』の詩と夢―マゾ理解で食い違う倉橋由美子氏への反論」(別冊潮18、1970)

という昔の記事を入手して、読んだ。面白かった。

天野哲夫は、『家畜人ヤプー』の著者沼正三の代理人であるが(その後、天野=沼 であることが明かされている)、この記事は、倉橋由美子による『ヤプー』評への反論という形になっている。

倉橋由美子の文を未読なので、さしあたっては天野の論からの孫引きでしかないのだが、倉橋は『ヤプー』について、“それが文学とは関係がなく、かつマゾヒズムとも関係がない”というように評したという。前者について、天野は、『ヤプー』が最初から文学とは無縁の立場に立って書かれたことは自明のことであるのにどうしてわざわざそんなことを言うのか、と疑念を記し、それが倉橋の『ヤプー』に対する個人的感情的な嫌悪感に由来するものであろうというようなことを仄めかしている。たしかに、(天野の要約するように倉橋の意図が『ヤプー』を文学的でないとするところにあるとしたら、)あの倉橋由美子にしてはずいぶん冴えない評だなと、私も思う。

面白いのは後者についてである。本邦随一稀代のマゾヒズム小説として知られるところの『ヤプー』を倉橋が、「マゾヒズムとは関係ない」としたゆえんの論理はどういうものか。天野の引用するところによるなら、倉橋の論理は、

「他人を誘惑して自分を家畜として扱わせるのがマゾヒストであり・自発性はマゾヒストの側にあるのであり・だから本当に精神を失って人間ではないものになってしまっているヤプーは・マゾヒストではない」

というものである。これに対して天野は、倉橋は「マゾヒストを知らなすぎる」のであるとし(これに関しては私も天野のいう意味で「マゾヒストを知っている」といえるのかどうか自信がないので「マゾヒズムの本質とはどうこう」みたいな話はここでは触れない)、また、自発性を以って相手を手段とするのがマゾヒストならある種の金持ちや権力者やサディストもマゾヒストじゃないか、と言われてみれば尤もな反論をするのだが、「自発性をもって自分を家畜とさせるのがマゾヒスト」という倉橋の理解は、(天野のいうようにある意味「ありがち」ではありながらも、)いかにも倉橋由美子で、面白いと思った。



以前、修論で、倉橋由美子の小説に出てくる女主人公たちの身体像、理想的な身体像を、「強姦されない身体」と表現したのだけれど、彼女らは、自分の身体が他者に対象として使用されたり解釈されたりするのを拒む。その具体的なあり方が、「どこにもない場所」の拒食によって痩せ細ってついには空洞になった身体であったり、「聖少女」や「夢の浮橋」の高級品であるがゆえにそのへんの男には手出しできない(いささか漫画チックな)女性像であったり、する。

「どこにもない場所」では、拒食症(という語は作中では使われていないが)の主人公「L」は、理想とする身体像について、「自分が穴そのものであることを望む」と言う。「穴」という語は受動的道具としての女性器を連想させるし、この理想は一見、徹底して対象・オブジェであろうとするヤプーの理想に似ているように見えるけれど、「L」のやり方は、一旦受動的道具としての「穴」になるように見せかけておいて、そうすることで自分の存在を消し誰からも捉まらない、というやり方である。「L」は、穴=欠如であるがゆえに、あなたはあたしを強姦できないと言い放つ。「L」は、人々の解釈を笑顔で受け入れた後に全て覆す。「L」の身体をなくそうとする理想は、身体に還元されようとするヤプーのあり方とはまったく逆である。

ここでは、一見受動的なあり方が、実は、自分の理想のために、能動的に選び取られていて、それは、(上で天野が要約している(のを私が要約した))彼女のマゾヒズム観とたしかにパラレルになっているように思う。

一見マゾヒスティックな状況にあっても、「L」の意識は、「眠らない、けっして濁ることはない」。



こうした理想的身体像を描いてきた倉橋としては、ヤプーのような、徹底してオブジェと化すことを享楽するような人間像(いや、それはもはや人間ではないと倉橋も天野も言っているので「人間像」は変か)は、到底受け入れられないものであったのかもしれない。

ここには、天野と倉橋が、実際に・この社会において、かたや男性でありかたや女性である、という事情もあるのかもしれない。実際問題として、女性のほうが圧倒的に、性暴力や性を通した権力支配にさらされる可能性、その結果本当に「生命の受動的な道具」(c:ボーヴォワール)として使用される可能性が高く、マゾヒズムを単なるファンタジーとして楽しむことが難しい。

(権力支配と書いたのは、「生意気な女を一発孕ませてやればおとなしくなる」みたいな、性または生殖によって女を支配しようとする考え方のことである。わたしがそれの存在を意識したのは、子供の頃、手塚治虫の『人間昆虫記』という漫画で、自分の思い通りにならない妻を自分の支配化におくため、夫が妻を無理やり妊娠させようとする場面であった。生殖という行為にそんな「使い方」があるということをそのとき知り、愕然とした。しかし同様のことはたとえば民族浄化の名の下で実際に集団的に行なわれている。)(とはいえ、沼正三マゾヒズムも、戦時体験に基づくところが大きいらしく、けっして「気楽な男の単なるファンタジー」とはいえないとは思うが。)



ところでこの「L」の、「(一見受動的な)穴になることによって強姦されないものになる」「受動的になることを、能動的に選ぶ」という戦略は、倉橋作品のいたるところに散見される、「パロディとしての女性性」とでもいうべきものの一つである。過剰に女性性・受動性を纏うことによって、「でもこれは"女装"ですからね、わざとやってるんですからね」と、能動性を担保するわけだけれども(cf.ジョアン・リヴィエール)、それは、現在でも、多くの女性が、「女やってる」とか「女装してみた」とか表現するときの感覚に似たものでないかと思う。

が、それは、先鋭的な戦略のようであって、外面的には単なる保守に見えることもしばしばある。たとえば倉橋はエッセイで、(これも本が手元にないため正確な引用ではないが)「財布を夫に任せる妻こそが悪妻だ」というようなことを書いている。妻が出しゃばって財布を握るのは妻に権力があるように見えて実は財布の管理という労働をさせられているわけなのだから賢くない、「貴方のお好きなように」と夫を立てて実は怠ける妻のほうが悪妻だ、とまあ通俗的な言葉で要約するとそんな主旨であった。が、今となってはそれって、本人の意識は「悪妻」であっても、「男の人を立ててうまく操りましょう」的なよくある言説やん、という気はする。



倉橋作品に見られる「あえて」女性性を装うやり方というのは、やはり倉橋作品に見られる「あえて」の保守反動、とパラレルになっている。

初期作品では、「あえて」の保守反動は、かなり「あえて」度が高かった。デビュー作の「パルタイ」もそうだが、当初、それははっきりと、当時の左翼運動の醜悪な面に対するアンチとして持ち出され・引き受けられていた。(60年代の作品では、主人公に理不尽な言いがかりをつける左翼集団に対し、「おれはたしかに保守反動だがおまえたちは何だ?」と主人公が啖呵を切りそうになる、という場面が書かれているなど。)

が、後期作品では、アンチの対象がそもそも弱体化したという時代背景のせいか、作者自身の年齢や生活の変化によってか、その「あえて」の保守反動は、「あえて」性が薄まり、漫然とした保守反動になっていった。(具体的にいうと、ブルジョワが退廃的な生活をするさまが延々と書かれ、ときどきかつての作品にあったような皮肉が挟まれはするけれどあんまり冴えはないなあ、という感じ。)

で、「あえて」の女性性と「あえて」の保守反動のパラレルさが、いちばん顕在的なのは、ちょうどその「あえて」が薄まる境目期の作品である「夢の浮橋」である。(時代的には、あさま山荘事件の頃という、ちょうど新左翼が盛り下がっていく時期に書かれている。)「夢の浮橋」の女主人公は、(「L」のようにラディカルに「穴そのものになる」という形ではなく、)周囲の男の賞賛するような女性性をもつ女性像である。周囲の男の賞賛する女性性とは、優雅とか古風とか(なおかつ美人とか)いわば保守的な期待に応える女性性であって、彼女は、周囲の偉い男たちの言う保守反動的な言説に積極的に同調してみせる。象徴的なのは、彼女に終始対置され比較されたうえで貶められるのが、「女を捨てた」ような格好で学生運動に精を出している女性であるということである。

が、彼女の女性性=保守反動性は、「あえて」のものであることが随所で示される。

まず、彼女の女性性=保守反動性は、あくまで、彼女の自己愛に奉仕するものといえる。彼女のそれは、それ自体の価値を信じて纏われたものでなくて、単に、それを纏うことで賞賛を得て自分の価値を高めるものに過ぎない。ジョアン・リヴィエールが精神分析の言葉で言ったところを借りれば、ペニス羨望の結果としての(ペニスとしての)女性性。(でもまあ、女性性を纏うことで男に賞賛され「男並み」になる、というそれ自体は、まったくよくあるやり方。)

さらに、ここが、「夢の浮橋」の批評性(とかいうとえらそうだが)でありこの作品が倉橋作品の「境目」作品であるゆえんだと思うのだが、この作品でもやはり、「L」と同様に、女性性=保守反動性を過剰に纏うことによって最後にそれを転覆させる、というオチが用意されている。(詳細は書かないが、)主人公は、保守的な価値観に従った結婚をし、その保守的な論理を徹底させることによって、結局結婚制度を内側から崩壊させるような行為に至る。(また、作中では、「L」が理想としたような拒食症的身体像が、ある登場人物に仮託されて暗示的に登場したりもしている。) 「眠らない、けっして濁ることはない」意識でもって、一見受動的にあることで能動的に事態を動かすという倉橋的ヒロイン像はここでも健在である。



一連の倉橋作品の「あえて」は、結局、「つまり弱者(この場合は女性)が生きていくために保守的なものに同調するっていう、よくある戦略でしょ」と要約すれば要約できそうだが、そんなふうに要約してもいいものなのか。結論からいうと、なんかそれだけじゃないんじゃないか、という気がしている。どうも、何か、違う要素がいっぽん、あるように感じる。が、そのいっぽんを未だ言語化できていない。個人的な勘では、そのいっぽんが「文学」ということと関係しているように感じる。だがその「文学」は、倉橋が「ヤプー文学ではない」と言ったときの「文学」とはたぶん少し違うものである。

PasserbyPasserby2018/11/22 12:46「マゾヒストM氏の肖像」が引用されていないんで
あまり倉橋由美子の作品についてご存じないという印象を受けるのですが
(これも本が手元にないため正確な引用ではないが)というのも
「受動的になることを、能動的に選ぶ」という批判を避ける戦略として興味深いです

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