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daisetsuの日記

2010-12-11

演習

00:27

世界は変わるものだ、それにつれて世の中が演劇に求めるものも変わっていく、という基本的なスタンスのもとで千田是也氏は、演劇論を述べている。興味深いのは、演劇もそこに含まれる芸術というものが、この世界、現実を表し、さらに芸術作品に触れる者をもそこに参加させる形で、世の中を変えるものだと言っている点である。

「芸術とは、この世界、この現実の正体を実践的なかたちで―とりわけそれを創る人、楽しむ人ひとりびとりの実際行動のかたちで―あらわすことである。(…)(芸術の特色として)大事なのは、(…)自分自身の実践として、-つまり、自分がある立場を進んで自分のものにし、その立場に立った自分(自分たち)の目的や願望をとげるために、自分自身を、世界を自分の手で実際に変えていく行動のかたちで―現実の正体を映しだすことにあるのではないか」(『演劇入門』岩波新書

何かを創り出すということ(もちろん、演劇だけでなくその他の表現を含め)は、世界・現実の正体を表象することである。そして氏が強調するのは、その行為が、創り手はもちろん、受け取る側をも含みこんだ存在であることが必要だということだ。芸術作品として表象されたものが、他人ごととしてでなく自分ごととして捉えられるべきこと。むしろそういったものこそ、芸術であるということ。だから芸術は、他人に向けての行動であり、自分を変え、世の中を変えようとする自分の行動に他人を参加させる行動である、というのである。

この主張は、まず世界は変わるものであり、変えられるものであるという、揺るぎなき前提のもとに展開されている。だからこそ、芸術作品にポジティヴな意味を付加できる。

仮にその前提が認められるならば、芸術はとてつもない可能性を秘めていることになるだろう。世界の現実を自らの感性を通じて対象化し、その正体を公にさらす。その作り手の実践的な行動が、受け取る側をまきこんで世界を変えていく一手になる…。

創り手の世界の捉え方、今後の展望が、パフォーマンスを通じて表現されることで、世の変革になるのだとしたら…!

言うまでもなく、この前提を丸ごと受け入れることはできないし、芸術家によるニヒリズムへの希望的な抵抗だと言ってしまえばそれまでだろう。だが私は、氏の主張に賛同したい衝動に駆られてしまう。氏は芸術と学問を区別しているようだが、やはり学的探求も芸術であり、その成果をことばによって表象するとしたら、それは芸術作品と同じ意味と役割を持つのではないか。

若者の多くは、もしかすると欲望に淡白になり、世界を変えることなどとうの昔にしらけているのかもしれない。それは確かに間違っていないスタンスだし、クレバーな姿勢だろう。だが、その選択の背後にはどことなく老人くささがあり、上の世代を否定したスタイルのように見えて、実は単に自らが歳を取っただけなのではないか。結局その選択の先にはゆるやかな衰退しか見えない、というか絶望である。そうであるなら、氏の言う芸術の本質に、賭けてみるのも一考だと私は思う。

ゲスト



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